山本七平botまとめ/【変換期にみる日本人の柔軟性/「不易」と「流行」③】流行には敏感だったが、それにおぼれることが無かった「不易」の人、渋沢栄一

山本七平『1990年代の日本』/変換期にみる日本人の柔軟性/「不易」と「流行」/「不易」と「流行」/161頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①明治六年六月、彼はまず三井組と小野組を説き、一般の投資をつのって第一国立銀行を創立した。 わが国最初の銀行であり、渋沢はフランスでフロリヘラルドの銀行をつぶさに見て来ているから、その内容も経営の方針も定まっていたであろうが、一般人はそうはいかない。<『1990年代の日本』

2015-06-16 17:08:56
山本七平bot @yamamoto7hei

②第一「銀行」などと言われても、何をするところやらわからないわけである。 そのため、株式募集の広告文にも事業の内容を説明する必要があったが、そこには、渋沢の考え方が明確に出ていて面白い。 これも、秀雄氏の現代語訳で引用させていただこう。

2015-06-16 17:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei

③【そもそも銀行は大きな川のようなものだ。 役に立つことは限りがない。 しかしまだ銀行に集ってこないうちの金は、溝にたまっている水や、ぽたぽた垂れているシズクと変りがない。 時には豪商豪農の倉の中にかくれていたり、日雇い人夫やお婆さんの懐にひそんでいたりする。】

2015-06-16 18:09:04
山本七平bot @yamamoto7hei

④【それでは人の役に立ち、国を富ませる働きは現わさない。 水に流れる力があっても、土手や岡に妨げられていては、少しも進む事は出来ない。】

2015-06-16 18:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤【ところが銀行を立てて上手にその流れ道を開くと倉や懐にあった金がより集まり、大変多額の資金となるから、そのお陰で貿易も繁昌するし、産物もふえるし、工業も発達するし、学問も進歩するし、道路も改良されるし、全て国の状態が生れ変ったようになる…】

2015-06-16 19:08:55
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥おそらくこのとき彼が脳裏に描いていたものは、かつて目にしたあのパリであリフランスであっただろう。 その後の彼の経済その後の彼の経済界における活躍は記す必要があるまい。

2015-06-16 19:38:58
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦その点で彼は確かに成功者だが、成功者は得てして自己の経験則を絶対化する。 そうなると「流行」に鈍感となり、年齢が進むとますますそれがひどくなる。 それは、若いときに何らかのイデオロギーを絶対化して情報をうけつけなくなるのと似た現象を呈するのである。

2015-06-16 20:09:02
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧さらに成功者のまわりには取りまきが出来て、相手の喜びそうな情報しか耳に入れなくなると、「流行」を全く無視した情報オンチになることも決して少なくない。 この点、晩年の渋沢には、その経歴から考えて少々不思議と思える面がある。

2015-06-16 20:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨彼は昭和6年11月11日に92歳で世を去った。 いわば満州事変勃発の年、日本が戦争にのめり込む第一年である。 従って彼は1932年(昭和7年)に登場したルーズベルトもニュー・ディール政策も知らないで世を去った。

2015-06-16 21:09:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩勿論彼がそれ以上長生きしたらというのはあり得べからざる仮説だが、もし彼がニュー・ディール政策を知ったなら日本もその政策で行くべきだと主張したと思われる徴候が晩年の彼に見られる。当時の事を考えれば、これこそ正に不思議なほど「流行」に敏感だった人間である事の証拠と言わねばならない。

2015-06-16 21:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪ルーズベルト登場の頃はアメリカでさえ労働組合を毛嫌いし、敵視し、弾圧しようとした資本家…は決して少なくなかった。 ところが渋沢は…「友愛会」(後の総同盟)の創立者鈴木文治と仲がよく常にその相談役となっていただけでなく、経営者側も「協調会」を作って「労資協調」を行おうとしていた。

2015-06-16 22:09:03
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫さらにそれだけでなく、労働運動阻止の法律と見なされていた治安警察法十七条の撤廃を主張し、労働組合法の制定にも賛成していたので、一部の資本家からは裏切者のように見なされていた。

2015-06-16 22:39:01
山本七平bot @yamamoto7hei

⑬それだけでなくストのカンパに自ら応じており、市川房枝氏…によると長野県岡谷の製糸工場の女エストライキのとき二百円を送っている。当時の二百円は決して少ない金額ではない。これらの事を…明治における資本主義の象徴ともいえる人物が、八十歳過ぎて行っていたという事は不思議な現象といえる。

2015-06-16 23:08:59
山本七平bot @yamamoto7hei

⑭というのは、現代の八十歳ぐらいの老人に、新しい時代とともに生じて来た新しい現象に、このような柔軟性をもって応じうることを期待できるかどうか、 甚だ疑間だと言わざるを得ないからである。

2015-06-16 23:38:58
山本七平bot @yamamoto7hei

⑮もっともそこには、後述するように「戦後民主主義の日本」のパイロット・プラントともいうべき「大正自由主義・民本主義」があった。 そして渋沢は、若き日に幕末から明治にかけての新しい時代の「流行」に鋭く反応したように、明治とは違った大正という時代にも鋭く反応していたといえる。

2015-06-17 08:09:02
山本七平bot @yamamoto7hei

⑯そして明治的資本主義を先取りしたように、ある時代を感覚的に先取りしていた。 これが、彼がもしニュー・ディール下のアメリカを視察したなら、かつて昭武の下にフランスを視察したときのように、将来の日本への新しいヒントをつかむであろうと空想したくなる理由である。

2015-06-17 08:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei

①彼は確かに「流行」に敏感であり、摂取すべき情報は的確に摂取していたが、「流行」に溺れて目が見えなくなることはなかった。 その時代の江戸の町並から見れば、文字通り豪華絢爛たるナポレオン三世治下のパリを見ても決して目がくらむことはなかった。<『1990年代の日本』

2015-06-17 09:09:20
山本七平bot @yamamoto7hei

②また「一身にして」三世、四世を経るといった体験をした長い生涯に於ても、その時々の支配的な「流行思想・風潮」に一辺倒になる事もなかった。いわばどんな時にも、俗にいう「めくら拍子木」にはなっていない。 「めくら拍子木」という差別用語を含む…俗言は昔の出版人がよく使った言葉である。

2015-06-17 09:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei

③いわば、カチッと拍子木が鳴ると目の見えない人もその方に顔を向ける。 しかし何も見ていない。 さらに別の方向でカチッと拍子木が鳴れば、反射的にその方へ顔を向け、時にはその方へ走り出すが、何も見ていないという状態である。

2015-06-17 10:09:02
山本七平bot @yamamoto7hei

④これは無定見の出版人が、マスマミ的な騒々しい拍子木の音の方へ走り出し、今日は右、明日は左を出版し、結局は何も成果なく倒産する状態をいった言葉だが、これは、時代がどう変わっても変わらない自己規定、すなわち「不易」のない状態から現出する。

2015-06-17 10:39:02
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤いわば「流行」に対して条件反射的に反応するが、不変の自己規定がないのでそれに溺れることはあっても、それから自己に必要なものを摂取することができない状態である。

2015-06-17 11:09:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥渋沢はパリという驚嘆すべきものの中にあっても、決してパリ、パリとそれに憧れたり無我夢中になったりせず、その背後にあってそれを現出しているものの中から、自己に可能なものを摂取しようという態度を維持しつづけていた。 これを可能にしたのが彼の「不易」である。

2015-06-17 11:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦彼は自らを、新しい産業社会日本を形成する経営者と自己規定しており、この自己規定は生涯、変える事がなかった。 そこには勿論、幼児から「家業」として小企業に携わり、その中で成長して来たという環境もあったし、またそれによって一人前となった自己ヘの、冷静な自己評価もあったであろう。

2015-06-17 12:09:10
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧この自己把握が彼を「不易」の人にし、それであるがゆえに逆に「流行」に溺れず、しかも偏見なくそれに対処できたわけである。 明治六年、彼が新政府を辞するとき、多くのものがその才を惜しんで彼をひきとめ、さらに彼が「官尊民卑」の中で一商人になると聞いて驚くものもいた。

2015-06-17 12:39:10
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨またそれを「カネがほしいから」と誤解して軽侮する者もいたが、彼は一切気にとめなかった。そして生涯、経営者以外の者であろうとしなかった。 彼は伊藤博文に政党の必要を説いた。伊藤はそれに感服して二年後に立憲政友会を作った。伊藤は当然に渋沢も入党するものと思っていたが、彼は断った。

2015-06-17 13:09:00