山本七平botまとめ/【変換期にみる日本人の柔軟性/「不易」と「流行」③】流行には敏感だったが、それにおぼれることが無かった「不易」の人、渋沢栄一

山本七平『1990年代の日本』/変換期にみる日本人の柔軟性/「不易」と「流行」/「不易」と「流行」/161頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

⑩伊藤は怒って「君は幾度も私に政党の結成を勧め、手紙までよこしておきながら、党員にならないとは不親切だ。まるで私を騙したようなものだ」と言った。これに対して渋沢は「自分は役者となって舞台に昇る事はしないが、熱心に拍手喝采を送る見物人になる。この事は手紙にも記してある筈」と応じた。

2015-06-17 13:38:58
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪伊藤は勿論それを知っていたが、ありきたりの世間的な「謙譲の表白」と思っていたのであろう。 また、井上馨が総理大臣になるという話があったとき、井上は渋沢が大蔵大臣を引き受けてくれれば組閣すると言った。 そこで伊藤や山県は何とかして渋沢を説得しようとした。

2015-06-17 14:09:10
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫特に丼上は、かつて肝胆相照らし、明治六年に共に辞職した間柄である。 渋沢としても彼を総理大臣にしたい気はあったであろうが、きっぱりと断わっている。 さらに東京都知事もことわっているが、貴族院の勅選議員は、そう簡単にことわれない。

2015-06-17 14:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑬「勅」は当時は絶対的であり、そこで一日だけ登院し、同時に辞表を提出してやめた。 いわばやめるために登院したようなものである。 こういう点では彼は「不易」であり、驚くほどの頑固さで「自己規定」を保持しつづけている。

2015-06-17 15:09:06
山本七平bot @yamamoto7hei

⑭同時に彼は、今まで記して来た日本の伝統を強固に踏まえていた。 まず彼がはじめて造った”株式会社”商法会所はむしろ駿府の「豪商一揆」であり、彼の人材登用はあくまでも「器量絶対」であった。

2015-06-17 15:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei

⑮さらに「論語的儒教的秩序」を保持し、そのリーダーとして生涯「九徳」の涵養に努めている。 こういう点もまことに「不易」にふさわしい。 そしてこの事は、情報は明確な自己規定があってはじめて活用できる、 いわば「不易」であってはじめて「流行」に対応できる事を示しているであろう。

2015-06-17 16:09:06
山本七平bot @yamamoto7hei

⑯明治が的確に情報を獲得していたのは「不易」があったからであり、「不易」があってはじめて「情報」が取得できるという原則は今も変わらないのである。 「情報公害」などという言葉は「不易」の喪失を意味すること以外の何ものでもない。

2015-06-17 16:39:04
山本七平bot @yamamoto7hei

⑰渋沢については書くべきことが多いが、これは別の機会にゆずり、次に前記の「戦後民主主義のパイロット・プラント」大正時代を短く瞥見してみよう。

2015-06-17 17:09:02
山本七平bot @yamamoto7hei

⑱明治時代に藩というパイロット・プラントがあったように、戦後社会にもパイロット・プラントがあった。 それがなぜ「昭和初期の逆転」を結果したかは、考うべき多くの問題をわれわれに提示するからである。

2015-06-17 17:38:57