足立透の変容過程-八十稲羽市を震撼させたトリックスターの救世主的逆転劇(P4G・P4U2考察)-

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タト @Leethoo_Tat

(「ほぼ」といったのは、彼の上司である堂島遼太郎とその娘である菜々子が危機にさらされた際などには彼らを本気で心配するといった、少々例外的な行動をとっているからである)

2015-06-29 22:24:34
タト @Leethoo_Tat

P4Gで真エンドルートに向かう展開においては、主人公と足立とのコミュを表すアルカナは「道化師」のアルカナから「欲望」のアルカナへと変化する。

2015-06-29 22:25:03
タト @Leethoo_Tat

アレイスター・クロウリーは『トートの書』において、トート・タロットの「欲望」のアルカナについての説明の項で「欲望とは力ばかりでなく、力を行使する歓びを意味する。それは活力であり、活力の歓喜である」と述べている。

2015-06-29 22:25:16
タト @Leethoo_Tat

まさに露骨な欲望が足立の行動の動機となっており、彼は本能的次元に生きている。彼はイザナミから与えられた特別な「力」を行使することに歓喜しており、それが彼の言う「つまらない現実」のなかで生きてきた彼にとっては活力の源になっていた。

2015-06-29 22:25:48
タト @Leethoo_Tat

今しがた述べた「本能的次元に生きている」というのは「元型的次元に生きている」というのとほぼ同意義である。つまり彼においては、いかなる点から見てもその自我意識の状態は未分化で、無意識的であるということが最大の特徴であって、

2015-06-29 22:26:40
タト @Leethoo_Tat

彼はただ彼の自我意識がヌーメン的な元型の自律的な力作用の犠牲のままに任せて行動することに歓喜しており、それが彼の活力の源となっていたのだとみなすことができる。

2015-06-29 22:26:46
タト @Leethoo_Tat

たとえば彼の「自分はこの世界(テレビの中の世界)に気に入られたらしい、全てを得た気分だ」という発言や、主人公ら「自称特別捜査隊」のメンバーたちと対峙した時の彼の、時に他人のことなど言えたものではないようなものさえ含まれている嘲罵の数々を見ればあからさまである。

2015-06-29 22:27:25
タト @Leethoo_Tat

その嘲罵の数々の拠り所となっているものこそは「力」であり、「力を行使する歓び」であり、「活力の歓喜」だったのである。

2015-06-29 22:27:36
タト @Leethoo_Tat

この無意識的な状態は、人間的・道徳的な意識段階ないしその意識段階の総計としての人間社会・人間世界から脱落していることを暗示させている。

2015-06-29 22:29:52
タト @Leethoo_Tat

彼において人間社会・人間世界の現実からの脱落者としての、また逃避者としての発言が多く見られていることは、彼がまさにトリックスター元型の憑依状態であることを示している。それはまた、足立においてトリックスターの「集合的シャドウ」としての像が立ち現れていたとも言うことができる。

2015-06-29 22:30:05
タト @Leethoo_Tat

「トリックスターが集合的シャドウである」というのは、それが「全ての個人の劣等な性格特性の総計である」ということを含意している。

2015-06-29 22:31:07
タト @Leethoo_Tat

主人公たちに犯行がバレてテレビの中の世界に自ら飛び込んだ足立はシャドウに襲われなかった。これは主人公と同じく、イザナミによって元々テレビの中の世界に入り込める力を与えられていたからともとれる。しかし足立本人の言葉を踏まえるならば、

2015-06-29 22:31:56
タト @Leethoo_Tat

「シャドウが自分を襲ってこないのは、シャドウの目的が自分と同じだからだ」とある。これは自らが全てのシャドウの総意を知る者、或いはその総意を代弁する者と位置づけていた発言であるといえる。

2015-06-29 22:32:54
タト @Leethoo_Tat

そして足立がトリックスター元型の憑依状態であったことを表していることの極めつけは、足立を依り代として現れたアメノサギリのイメージと、そのアメノサギリと足立の発言の共通性、そしてアメノサギリと足立ないしは大衆の、「我は汝、汝は我」の関係である。

2015-06-29 22:33:37
タト @Leethoo_Tat

足立もアメノサギリも、世界が霧に飲み込まれ、人間がことごとく闇の中で蠢くシャドウとなり、直視するのが辛い現実ないし真実を見る必要もなく、盲目となって虚構で楽にすませることが出来ること、それがすべての人々の望みであると述べた。

2015-06-29 22:34:25
タト @Leethoo_Tat

ここに足立ないし足立のいう「すべての人々」とアメノサギリの間に「我は汝、汝は我」の関係が認められる。アメノサギリが「我が望みは人の望み」と述べていたことも想起しておこう。

2015-06-29 22:34:44
タト @Leethoo_Tat

足立はその導き手としての役割を担うことを引き受けていた。

2015-06-29 22:35:45
タト @Leethoo_Tat

そしてアメノサギリは自らが全ての人々の望みそのものとして、晴れることのない霧で包まれているテレビの中の世界を膨張させ、最終的にはテレビの中の世界と現実の世界の境界線をなく平らかに一つになる世界を創造し、その世界に秩序の主として降りることを目論んだ。

2015-06-29 22:35:52
タト @Leethoo_Tat

テレビの中の世界は人の心のうちに元よりある無意識の海と語られているあたり、諸々の元型で構成されている集合的無意識の世界とみなすことができる。

2015-06-29 22:36:18
タト @Leethoo_Tat

ペルソナの形成と現実適応の能力の発達とは、集合的価値に当たる良心判断中枢としての超自我(いわゆる「禁止」の役割を担うもの)に導かれてなされる。だがそれは同時に抑制と抑圧の力となり、無意識の中にシャドウ(個々人それぞれの個人的シャドウ及びその総計としての集合的シャドウ)を布置する。

2015-06-29 22:37:17
タト @Leethoo_Tat

アメノサギリが述べている霧に包まれたテレビの中の世界の膨張と全ての人間のシャドウ化について考察すれば、まさにアメノサギリが集合的シャドウの像そのものであることを見て取ることができる。

2015-06-29 22:37:54
タト @Leethoo_Tat

集合的シャドウは個人的シャドウの総計であり、個人的シャドウは人格に必ず備わっている要素であって、そのため集合的シャドウは常に個人的シャドウから都度再生産される。その個人的シャドウから都度再生産されることで集合的シャドウは膨張を続ける。アメノサギリはまさしくそれに該当するのである。

2015-06-29 22:40:03
タト @Leethoo_Tat

アメノサギリをトリックスターないし集合的シャドウの元型そのものと捉え、足立が彼を象徴的に指し示している欲望のアルカナの解釈通りに、露骨な欲望本位に、即ち本能的=元型的次元に生きていて、自我意識がヌーメン的な元型の自律的な力作用の犠牲のままに任せて行動すること、

2015-06-29 22:41:34
タト @Leethoo_Tat

即ちトリックスター元型の憑依状態であることに歓喜していたと捉えれば、里中千枝の「足立さん、あいつ(アメノサギリ)に操られていたのかな」という疑問に対して、白鐘直斗の「さあ、望んでいた面もあったと思いますが」と応えているくだりはまさに適切な解答を示していたといえるだろう。

2015-06-29 22:43:34
タト @Leethoo_Tat

ノイマンは現代人において布置された劣等な人間部分の総計であるこの集合的シャドウを「大衆人間」ないし「大衆自己」と言い表した。大衆という言葉はアメノサギリも主人公たちとの戦いの直前の会話において主人公たちをさして「大衆の意志を煽り、熱狂させる良い役者だった」と述べる所で使っている。

2015-06-29 22:45:07
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