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【城プロ】城娘紹介(小田喜城~七尾城)

『御城プロジェクト』に登場する御城を擬人化したキャラクターである城娘を史実を中心に紹介するまとめじゃ。正確な記述を心掛けておるが、歴史解釈には諸説あるし、保証はせぬぞ。(今回、ツイートに対していくつか訂正ありなので次回以降気を付けるのじゃ)
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岐阜城 @SP_inabayama
【小田喜城(1/3)】大永元年(1521年)、真里谷信興の次男である真里谷信清が現在の千葉県に築城したとされる御城じゃ。信清のあとは朝信が継いだが、天文13年(1544年)、里見氏の武将である正木時茂によって城を奪われたのじゃ。 #城プロ #城娘紹介
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【小田喜城(2/3)】天正18年(1590年)、里見氏は惣無事令違反を理由に上総国を没収され、同国は徳川家康に与えられたのじゃ。そして、その家臣である本多忠勝が小田喜城に入城し、三層四階の天守を持つ近世城郭へと改築を行ない、小田喜城は大多喜城と改称されたぞ。 #城プロ #城娘紹介
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【小田喜城(3/3)】城プロの小田喜城は忠勝が愛用したという天下三名槍の一つ、蜻蛉切を武器としているが、先述の通り正確には忠勝と関係があるのは大多喜城じゃ。そのためか、必殺技名は「とんぼきり」と平仮名表記になっているし、まだ上手く扱えていないようじゃな。 #城プロ #城娘紹介

蜻蛉切は、刃先に蜻蛉が当たって切れたという逸話から名付けられたのじゃ。

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【大多喜城(1/3)】本多忠勝が一から築城したとされることもあったが、近年の発掘調査により、小田喜城を改築および改称したとされる御城じゃ。天保13年(1842年)の天守焼失後、代わりに「神殿」が建てられたとされるが、この建物は実在したかも含め謎が多いのじゃ。 #城プロ #城娘紹介
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【大多喜城(2/3)】城プロの大多喜城が「日本一の深さ」と自称する井戸は周囲17メートル、深さ20メートルで「底知らずの井戸」と呼ばれたのじゃ。しかし、実は福知山城の井戸は深さ50メートルで、こちらの方が城郭内の井戸の中では日本一の深さなのじゃ。 #城プロ #城娘紹介

訂正:福知山城の井戸は本丸井戸としては1位じゃが、城郭内の井戸としては丸亀城の二の丸井戸で65メートルが1位じゃ。大多喜城が言っているのも二の丸井戸じゃな。

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【大多喜城(3/3)】また、大多喜には大殿が庄屋に御禁止川の鯉を捕るように命令したところ、鯉を捕るのをやめて欲しいと頼む娘が現れ、庄屋が断りながらお詫びに草餅を食べさせ、後日鯉を捕ったところ腹から草餅が出てきたため鯉料理を禁止したという話が残っているのじゃ。 #城プロ #城娘紹介
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【忍城(1/7)】言わずと知れた『のぼうの城』で、15世紀後期、成田氏が現在の埼玉県に築城したとされるのじゃ。(年代、築城主に諸説あり) 天文22年(1553年)、北条氏康に攻められるも落城しなかったが、その後上杉謙信に攻められると、これに恭順したのじゃ。 #城プロ #城娘紹介
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【忍城(2/7)】永禄4年(1561年)、当時の忍城城主の成田長泰は謙信による小田原攻めに付き従ったが、謙信の帰国後、氏康に降伏して反旗を翻したのじゃ。一説には、下馬をせずに挨拶した無礼を謙信に咎められたのが反旗の理由とされるが、元々衝突はあったのであろう。 #城プロ #城娘紹介
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【忍城(3/7)】そして、天正18年(1590年)に豊臣秀吉に忍城攻めの総大将として命を受けた石田三成に成田長親が城代として対峙し、日本三大水攻めの一つである戦が始まったのじゃ。なお、当時の城主である成田氏長は家臣に忍城を任せ、自身は小田原城に籠城したぞ。 #城プロ #城娘紹介
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【忍城(4/7)】三成はのちに石田堤と呼ばれる堤を築き、忍城を水攻めすることを発案したともされるが、当時の書状によればむしろ水攻めを疑問視する立場を取っており、細かく指示を出していた秀吉の発案であったと考える方が自然であろう。 #城プロ #城娘紹介
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【忍城(5/7)】そもそも一介の奉行にしか過ぎない三成に総延長28kmとされる堤を築く計画など立てられるはずもなく、秀吉が自分の富と権力を諸将に知らしめるために行なったものであろう。つまり、この戦の失敗を持って三成を戦下手とするのは疑問が残るのじゃ。 #城プロ #城娘紹介

財力を見せつけることで小田原城の士気を削ぐことも計算の内であろう。

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【忍城(6/7)】石田堤が決壊し、この戦が三成側の失敗と終わった理由は農民がわざと手抜き工事をしたからだという説もあるが、のちに忍の浮き城と呼ばれるように忍城が立地上水攻めに強く、また堤の工事が非常に短期間だったため、どのみち無理があったのじゃ。 #城プロ #城娘紹介
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【忍城(7/7)】また、水攻めが実行されたという一次史料もないため、そもそも水攻めは未遂の計画だったという説も有力であるぞ。ともかく戦後は、徳川家康の四男である松平忠吉が十万石で入城すると、その後廃藩置県で廃城となるまで城下町も栄えたのじゃ。 #城プロ #城娘紹介
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【本庄城(1/3)】弘治2年(1556年)、本庄氏が現在の埼玉県に築城した御城じゃ。全国各地にいくつか同名の御城があるから注意するのじゃぞ。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めで落城すると、徳川家康の家臣の小笠原信嶺が入城および改築したのじゃ。 #城プロ #城娘紹介
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【本庄城(2/3)】信嶺の養嗣子である小笠原信之によって立藩された本庄藩が慶長17年(1612年)に廃藩になると、本庄城も廃城となったのじゃ。城プロの本庄城は、城山稲荷神社という神社を持ったためか巫女の格好をしているのじゃ。 #城プロ #城娘紹介
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【本庄城(3/3)】また、江戸時代には、廃城後も残された城下町は本庄宿という名で発展を遂げ、中仙道最大の宿場町と称されることとなるが、これは本庄城が早くに廃城となったため、城下町から宿場町へと方向転換するのも早かったためと言われるのじゃ。 #城プロ #城娘紹介
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【横山城(1/1)】大永元年(1521年)、大石定重が高月城から移り現在の東京都に築城した御城じゃ。天文15年(1546年)には、定重の子である大石定久が北条氏康の三男である北条氏照を娘婿に迎え、大石氏は北条氏に下り城主となった氏照が滝山城と改称したのじゃ。 #城プロ #城娘紹介
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【滝山城(1/2)】永禄元年(1558年)頃、北条氏照によって改築された関東屈指の山城じゃ。1569年(永禄12年)、武田信玄軍に攻められ、別動隊の小山田信茂隊には小仏峠から侵入されて落城寸前にまで追い込まれるも寡兵で撃退したのじゃ。 #城プロ #城娘紹介

記述ミス:1569年(永禄12年)→永禄12年(1569年)

八王子城も「関東屈指の山城」と称されることがあるが、こちらの方がより正確かの?

城プロの滝山城は、標高が170メートルしかないためか平山城じゃが、山城とされることもあるのは確かじゃ。

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【滝山城(2/2)】武田軍の猛攻はなんとか凌いだものの、この戦いにより滝山城の弱点を痛感し、より堅固な八王子城を築城することとなったと言われるのじゃ。城プロの滝山城は、氏照が「笛姫物語」という伝説も残るほど笛の名手だったためか笛好きなのじゃ。 #城プロ #城娘紹介
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