- trinity_inc
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よく思うのですが、人がなにかを「真実だと証明したい」と思う欲求の裏側には、「人を変えよう」という意図があるような気がします。多くの場合、本人は真実を追究していると信じて、自分の本当の意図(人を変えたい)に気が付かないことも少なくありません。
2011-01-02 23:09:20「人を変える」ことが前提であるならば、証明された真実以外は、真実として使い物になりません。したがって、「人を変える」ことが有益だと信じられている社会においては、真実とは常に証明されているものでなければならないのです。
2011-01-02 23:11:08自分の意見に従う人を多く集める、自分がコントロールできる組織を拡大する、自分が影響力を持つ権力を手にする・・・。我々が慣れ親しんだ資本主義社会における「成功者」は、基本的に「人を変える」ことに成功した人々です。
2011-01-02 23:14:49この世界観には、少なくとも二つの大きな問題があります。第一に、世の中には、証明されない真実の方が、証明可能な真実よりも圧倒的に多いということです。
2011-01-02 23:24:28すなわち、証明しようとする行為自体が、世の中の莫大な真実から自分を最も遠ざけることになります。逆に考えると、人生において、人を変えよう、人と争おう、自分を守ろう(・・・すなわち証明しよう)、という心を手放した瞬間に、大量の真実にアクセスできる、ということでしょう。
2011-01-02 23:26:57第二の問題は、証明行為には莫大なコストが伴うと言うことです。どれくらいの時間と費用とエネルギーが必要かは、例えば、法廷を見れば明らかでしょう。法廷とは真実を知る場ではなく、真実を証明する場です。真実を「証明」するために社会が負担するコストの大きさが容易にイメージできると思います。
2011-01-02 23:33:55逆に考えれば、人を変えよう、人と争おう、自分を守ろう(・・・すなわち証明しよう)という心を手放せば、その瞬間から真実はそのままで意味を持ち、証明される必要がなくなり(というよりも、真実はもともと証明不要なのですが)、人生と事業と社会からコストが激減します。
2011-01-02 23:38:05最近良く耳にする「説明責任」は、行動の正当性の「証明」を求めるという概念ですが、私は時折ナンセンスだと感じます。経営者(に限りませんが)が行う経営判断の多くは、確かに表面的には説明可能かもしれませんが、突き詰めると、誠意に基づく直感であることの方が多いのではないでしょうか。
2011-01-02 23:43:00もともと直感によるものを説明することは良くて困難、多くの場合不可能です。「説明責任」のために、「証明」できる真実を積み上げることは可能ですが、このコストは本当に必要なものなのでしょうか。我々が本当に経営者(リーダー)に求めるべきは、「説明責任」よりも、誠実さである筈です。
2011-01-02 23:47:11・・・念のために、私は説明が不要だと言っているわけではありません。誠意がなければどのような説明もコストに過ぎない、と言いたいだけです。繰り返しますが、経営者が生産性を生むことの要件は、説明ではなく、誠意です。
2011-01-02 23:50:44インターネットも社会も人生も同じだと思うのですが、証明できることにこだわりすぎていると、本当に大事なこと(真実)を失いがちです。人間関係において、愛の存在を「証明」しようとする行為はもっとも愛を遠ざけますし、そもそも愛を「証明」するためのコストはかなり高くつきそうです。
2011-01-02 23:51:26愛が存在するかどうかの証明を手放し、その存在を信じ、それを目的として経営を行うことで、事業的な成果が生まれます。ある人が、愛の存在を否定することは可能ですが、「愛の存在を信じることで生まれる生産性」を否定することはできないのです。これが、「証明を手放すことの合理性」の一例です。
2011-01-02 23:52:14