「東工大シンポジウム」東浩紀氏の雑感
というわけで呟くが、ぼくってちょっと物語的に不感症なところがあって、すごく形式的な構造(メタフィクション)とかか、そうでなければキャラのデザイン(萌え)か、どちらかばかりに突出して引かれてしまう傾向が強いのですね。
2010-03-08 16:02:53それで、このあいだのシンポジウム(1日目)で、宮台さんが「けっきょく娘は物語なんか見てないで太陽の剣に萌えているだけなんだよね」的なことを言ったとき、大塚さんがそれに「かつて柄谷行人がサブカルチャーには構造しかないと言って」的な返し方をしたじゃない。
2010-03-08 16:04:37あれを横で訊きながら、ぼくはじつは、あ、宮台さんや大塚さんには「形式」と「萌え」は両方とも物語の外部として同じように見えているのだなあ、とちょっと驚いたりしていたのです。
2010-03-08 16:05:39構造/物語/萌え、あるいはそうね(対応できるかわからないけど)、form / content / textuality みたいな三層構造があったとして、宮台=大塚は決定的に「内容の解釈」をしているひとなんだけど、ぼくはやはりどこかズレているんだな。
2010-03-08 16:09:12そしてそのズレが構造のほうと萌えのほうに同時に向かっているので、ぼくの本はすごく思想っぽいように見えながらもすごくオタクっぽくもある、そんな感じのものになってしまうのだろう。
2010-03-08 16:10:42Avatarの物語がどうでもいいのは自明として、黒沢清氏が言っていたのは、構造=形式=フレームの問題としてもダメだよね、ということ。対して村上隆氏が言っていたのは、それと別にもうひとつ、textuality、つまり画像の不気味な手触りの話があるということで、ぼくはこれは同意する。
2010-03-08 16:13:44それで、あのときぼくが言った「日本的なものの分裂」の話も、このformとtextualityの話でいけないかなあと。つまり、すごく静謐でスタイリッシュな形式と、すごく猥雑で幼稚な物質性みたいなものが<物語なしに>短絡されるところに、なにか日本的表現の特徴みたいのないかなあと。
2010-03-08 16:16:36ぼくが動ポモの3を書くとすれば(書くのか?)、そんな美学的な話をすればいいのかなあと、そんなこと考えてました。1は社会学編、2は文芸評論編なのだけど、3があるとすれば、もうそういうこと考えるしかないし。そうすれば、ぼくの変なこだわりも、ようやくわかりやすくなるかもしれない。
2010-03-08 16:18:42萌えの問題は、ぼくにとっては画面の手触りの問題なんだよな。手触りそのものがセクシュアルだから、それはむろんセクシュアリティと関係しているけど、しかしそれは異性愛的暴力の問題というよりもっと倒錯的で前性器的ななにかと結びついている。
2010-03-08 16:25:25そしてそんな倒錯的で前性器的な「なにか」が、視覚的で近代的な主体を迂回して(視覚性と近代性の関係についてはクレーリーなど参照)、そのままとても静謐で形式的な擬似ー超越論性(たとえばメタフィクション的自己言及)に流れ込んでしまう、というのがぼくの考えるセカイの原理なんですよね。
2010-03-08 16:32:28この観点で切れば、「存在論的、郵便的」と「動ポモ」第3章がじつに近いことを言っていることが、わかるひとにはわかるかもしれない。
2010-03-08 16:34:02