薬の効き方

即興小説です。
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佐々木匙@やったー @sasasa3396

私は病院で目覚めた。白い部屋に眩しい明かりの部屋で医者の先生が、危なかったんですよ、と私の顔を覗き込みながら言った。心臓がどうにかなって倒れていたらしい。それから、私はゆるゆると日常生活に戻るための処置をいろいろと施された。リハビリ。たくさんの注意事項。

2015-10-07 17:56:36
佐々木匙@やったー @sasasa3396

その中には、極端に喜んだり、驚いたり、緊張したりしないこと、というものが含まれていた。先生、これは無理です。私はそう言った。私は比較的感情が豊かな方だと思う。倒れた時も、車にぶつかりそうになって、心底びっくりしたせいで外傷もないのにばったりといった、というものだった。

2015-10-07 17:58:42
佐々木匙@やったー @sasasa3396

特に、私はピアノをやっていて、いずれコンクールに出ることを楽しみにしていた。結果がどうであれ、私の心は強く揺れ動くはずだ。それでまた倒れるのはどうにかしたい。先生は強く頷いた。大丈夫、心理薬を処方しますから。それは、四角い小さな錠剤二錠だった。一週間に一度服用する。

2015-10-07 18:01:31
佐々木匙@やったー @sasasa3396

心理薬の効果はいまいち実感できなかった。私は普通に友達と笑い、映画を見て泣いたり驚いたりし、ピアノに情熱を注いだ。何も変わらないから、薬を飲む時くらいしか意識していなかった。私は日常にしっくりと馴染んでいった。

2015-10-07 18:04:21
佐々木匙@やったー @sasasa3396

やがて私は念願叶って、ピアノのコンクールに出場できることになった。しんとした会場で、今までの練習の全てをぶつけるように、無心で指を動かした。信じられないくらい上手くいった。優勝はともかく、いい線まで行くのではないか。私は高揚しながら結果を待った。

2015-10-07 18:07:30
佐々木匙@やったー @sasasa3396

結果が発表された。私は三位で、それでも涙が出るくらい嬉しかった。一瞬だけは。感情のグラフが跳ね上がった瞬間、突然何も感じない、フラットな気持ちにがくん、と下がった。先生と母親が笑顔になったり、涙を流したりしている中、私はただ無表情で、それからゆっくりと笑顔を作った。

2015-10-07 18:11:04
佐々木匙@やったー @sasasa3396

ともかく、私は喜んでいるのだと、あの一瞬の感情の揺れを頼りに、そういうことにした。表情と声を作り、皆のおめでとうの言葉に応えた。実際は、何も感じていないのだということは、悟られないようにした。私は高校を卒業するまでピアノを続け、それからぴったりと辞めてしまった。惜しまれたけど。

2015-10-07 18:13:36
佐々木匙@やったー @sasasa3396

他のことも一緒だった。誰かの死を悲しんだ時、事件に驚いた時、許せないことに怒った時。私の心は何も感じなくなる。少しずつその範囲は広がっているように思えた。調節が上手くいってきているんですよ、と医者は言った。私は特に逆らわなかった。だって、命がかかったことだから。

2015-10-07 18:17:08
佐々木匙@やったー @sasasa3396

そう、私はともかく未だ弱いままの心臓を守らなければならなかった。だから、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、驚いたりするふりをしながら、なんとか人間としておかしくないよう生活を続けていた。それはほぼ上手くいっていたと思う。ある一点を除いては。なかなか厄介な一点だった。

2015-10-07 18:19:25
佐々木匙@やったー @sasasa3396

それは恋愛で、何かあると私の心は一瞬だけときめいたまますぐに氷漬けになってしまう。それでもその時好きになったことだけはわかるので、私は必死で恋をする女の子を演じた。それに相手が応えてくれることもあって、晴れて両思い、ということになってからが問題だった。

2015-10-07 18:21:50
佐々木匙@やったー @sasasa3396

何せ、本当の私の心はコンプレッサーを掛けられたようにフラットだ。一緒にいるうちに、それは徐々に見抜かれた。本当に俺のこと好き? って、別々の相手に何回聞かれたことだろう。私は、好きだよ、と答える。好きになった瞬間はわかっても、冷める時はわからないようにできているから。

2015-10-07 18:24:20
佐々木匙@やったー @sasasa3396

それで上手くいくわけがないのだけど、私は愚かにも何度もそんな恋を繰り返した。私は、人間らしくあらねばならないのだと思っていたから。薬を飲む前の自分に縋っていたのかもしれない。何度も振られたけど、特に心は痛まなかった。薬はもうそれくらいに効果を発揮していた。

2015-10-07 18:26:44
佐々木匙@やったー @sasasa3396

「って話なの」私が話を止めると、友人はうん、と生返事を返す。何度も聞かせた話だ。向こうも耳にタコだろう。少し汗ばむくらいの空気。温室の中で、彼は南の植物に夢中だ。そもそも私の話を聞いていたかどうかもわからない。それでも、聞いてくれることがありがたい。

2015-10-07 18:31:17
佐々木匙@やったー @sasasa3396

「聞いてた?」「聞いてたよ。また振られた話でしょ」ここは穏やかで、彼の声もぼんやりしていて、気に入らないところと言えば椅子がないことくらいだろうか。私は名前も知らない木の葉をじっと眺める。よくわからないが、元気にすくすくと育っているようだ。何より。

2015-10-07 18:34:08
佐々木匙@やったー @sasasa3396

彼には、残念ながら何も感じたことはない。だから友人付き合いが上手く続いているのだろう。つまり、特に自分を偽らずに済むということだ。一瞬の高揚を維持する振りをする必要がない。とてもありがたいことだ、と思った。心理薬は、そこまで私の心に影響を及ぼしていた。

2015-10-07 18:37:23
佐々木匙@やったー @sasasa3396

「薬がなければ、こんなことにならないのかなあ」ぽつりと呟く。「ないと危ないんでしょ? 想像もつかないけど」「まあね。言っても仕方ないんだけどね」彼は眼鏡を指で上げた。「……わかんないんだけど、なんで薬を飲んでない状態を基準にするの?」私は瞬きをした。

2015-10-07 18:42:13
佐々木匙@やったー @sasasa3396

「ほんとならこうしてたはず、こう期待されてるはず、とかで動くのってさ、辛くない?」俺はごめんだなあ、と植物好きの変人として名高い友人は言う。「もう慣れちゃったし」「ちょっとそれ止めてみたらいいのに」ちらりと彼は私を見た。「薬を飲んでる状態が普通なら、それに合わせてみたら」

2015-10-07 18:46:01
佐々木匙@やったー @sasasa3396

でも、と思う。もう遠い昔のように思える、感情豊かだった自分。薬に任せて気持ちを平らにすることは、人間らしさを捨ててしまうようで。「俺は薬を飲んでからの君しか知らないし、薬の話を知ってるよ。それで、君をいい子だと思う」植木鉢を置いて、ちょっと頭を掻く。

2015-10-07 18:49:23
佐々木匙@やったー @sasasa3396

「だから、いいんじゃないかなって、無理しないで」私は目を閉じた。湿気の匂い。緑の匂い。私はここが好きだった。心が跳ね上がることがなくても、薬に閉ざされた心でも、ここで彼と話をすることが好きだった。私は目を開けた。彼がこちらを見ていた。

2015-10-07 18:52:03
佐々木匙@やったー @sasasa3396

穏やかであること。私はそれを、どこか恐れていたように思う。でも、ここにはそれがあって、私はそれを心地よいと思っていて。「うん」私は素直に頷いた。「そうしてみようかな」彼は照れたように(照れたのだろう)鉢に視線をやった。

2015-10-07 18:55:05
佐々木匙@やったー @sasasa3396

透明なビニール越しの空は、少し曇っていた。私は、この心臓と薬を受け入れよう。少し、好きの形を変えてみよう。物事も、人も。忙しそうに葉の様子を見ている、白いシャツの背中をちらりと見やる。そう、たとえば、こんな風に。

2015-10-07 18:58:05