[中村政人個展]トークセッション『はじまりのはじまりー80年代後半からの新たな動向の目撃者の証言』[実況]
- misonikomioden
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中村「日本にアートワールドがない。それならどうするか。ギャラリストとディーラーだけでなく、作家とともにプライマリーに打ち出して行こう、と。かつ場所。銀座は家賃安いがレントゲン藝術研究所は大田区で圧倒的な大きさ。
2015-10-10 16:24:36中村「銀座と神田の貸し画廊街、そこがもの派とポストもの派の壮大な実験場で、そこで飲んでぐだぐだになるパフォーマンスしたり、、、ギャラリーでほんとにそれをしているが、自由を獲得する意味で貸し画廊はオルタナティブだ。
2015-10-10 16:25:37中ザワ「64年に読売アンデパンダンがなくなり貸し画廊として内科画廊がスタートする。そのマニフェストで、貸し画廊は試験管である。お金さえ払えば実験ができる、と、その後日本では貸し画廊が肯定的に捉えられる流れがあるそうだが、
2015-10-10 16:26:35村田「ろうかんどうという画廊が日本初。高村光太郎が展示。 戦後では、読売アンデパンダン展中止がきっかけ。行くところがなくなった若者の受け入れ先が貸画廊。確かにオルタナティブが無かった日本のオルタナティブな場所だった。
2015-10-10 16:27:50中村「「貸画廊」という展示もしている。貸画廊ってどうかと色々な人に話を聞いてまとめた本があり、小沢剛が(藍画廊の前で)あいあい画廊をしてて福田美蘭が展示してて、僕は、自転車のロックをかけた作品をつくってたが、
2015-10-10 17:14:40中ザワ「貸画廊の功罪がある。肯定的に捉えられていたが、80年代後半には否定的側面が目につく。 そこに中村信夫の著書があり、日本にアートワールドがない、それをちゃんと真に受け、そして新宿少年アートとなる。
2015-10-10 17:15:42中村「韓国側からすれば、当時日本の本は読めなかったがこっそり日本の美術手帖を読んでいる。そこのレビューは貸画廊。そしてもの派。 70年代の美術はめっちゃ面白く、あこがれが神田貸画廊。 一時、韓国の作家で貸画廊が埋まった。
2015-10-10 17:16:14中村「韓国の作家の作品をかける高さが低い。目の高さでない。 あれはアートインアメリカの写真を見た比率からだ。 中ザワ「実際は高い天井にデカイ作品があるのだが、相対的にそう見える、と
2015-10-10 17:17:21中ザワ「欧米基軸の目線の話で、少年アートは欧米目線で日本を見て日本はダメだ、という話だ。 その視点でない、日本初のこと、それが欧米に向くかどうか、ということだがそれについてどう考えていたか。
2015-10-10 17:18:06中村「韓国へ留学していたとき、アジア各地、世界一周したりしていた。 美術館もみたしヴェネティアビエンナーレもみて、日本の美術がかかえる違和感を拭えなかった。場所の問題。 地価もそうだが、ギンブラート、新宿少年アートときて、そして秋葉原へ行こう、とそしてコマンドNを立ち上げる
2015-10-10 17:18:30中村「3331は行政から支援されてる場所とは思ってない。ギンブラートと同じ気持。TATもそうだが、アートシーンの発展で、たえずオルタナティブの意識だ。
2015-10-10 17:19:04村田「会田誠が言ってたが、先輩たちが抽象表現主義を描いていて、休憩時間にはマンガ読み、それが終わるとまた抽象表現主義描く、と。それに違和感があるとか。
2015-10-10 17:19:28中ザワ「もの派の還元主義が、欧米型還元主義が正しい、というのが藤枝批評。それがモダニストペインティング、つまり抽象表現主義の絵画、ということだが、
2015-10-10 17:20:09中ザワ「僕の美術史では、もうちょっとヘタうま、パルコのヘタうまが強い。そこは美術という名前は無かったが、ビジュアル的な熱い盛り上がりがあり、
2015-10-10 17:20:27中ザワ「デザインという応用ではなく、表現衝動として、表現者が集っていた、80年代において、美術の名前でやっていた人と、美術なんてダサいと外に飛び出た人の温度差にもみえる。
2015-10-10 17:20:36中村「日比野が日グラで大賞をとったパーティにいったが、僕もダンボールに絵を描いていたのだけど、スポットライトは日比野さんだけで、もう二度と公募展へ出すもんかとおもって、、、
2015-10-10 17:20:57