[中村政人個展]「増え続ける地域の芸術祭は何をもたらすのか?」[実況]
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北川「ともかくそんな凍結した場所から違う世界を探すようになった。 当時は美術館は神秘な世界で何も言えなかったが、変わり始めた。 また美術館では予算取れないので、芸術祭としてお金を取るようになった。
2015-11-03 13:37:50筆者)発言者不明 「瀬戸内芸術祭、今は公立だが、福武さんのような桁外れな人が関わり島で行っている。越後妻有との違いなどは?
2015-11-03 13:38:43北川「福武財団的に芸術祭がうまくいかないことは先細りになるので積極的に関わり、もの売れないと食べていけないぞ、という危機感はある。
2015-11-03 13:39:29北川「商売とは違う意味で美術館は頑張らないと足場が崩れる、自分たちがこうだと言えなくなってしまう。美術館は積極的にやっていくべきだろう。
2015-11-03 13:40:09北川「(美術館とは)美術に関わりつつ行動の主体でないくせによく美術にものが言えるな、と。美術は経験値なく孤立し毒があるのだが、安心で綺麗なことをしていると美術館は勘違いしてるのではないか。
2015-11-03 13:40:37中村「美術館設立と同時にパブリックアートがでてきたが、何の工夫もなくそこに置かれ駅前パブリックアートの弊害となる。 越後妻有は山中にパブリックアートを持込み管理運営する作品があるがなぜ保たれるのか。 越後妻有が止まればあの膨大な作品は誰がどのように守りつづけるのか?埋もれるのか?
2015-11-03 13:42:26北川「越後妻有は将来どうするかという課題は大きいし、管理にお金もかかる。しかし作品は面白い。何もない山、そこに言葉・光と意味などが与えられ、つまり固有名詞が与えられる。それがアートだ。
2015-11-03 13:44:00北川「たしかに老齢化している問題ある。60が80歳となるのはきつい。またアートは秋田犬ののと同様となってきている。 手間暇かけて説明した時にアートとの共犯関係ができる。 私は作家と作品とに共犯関係もたないようにしてきている。
2015-11-03 13:45:35北川「村上春樹の1Q84(?)のようになんでもありではないかと頭にきているが、そのような作家と関係を持つことは今まで無さ過ぎた。 要素はできてきている。 アートは生き物で、すぐダメになることはある。 壊れるとか見飽きるなどある。 それをどうするか、と
2015-11-03 13:45:54中村「現代美術というコアなハードエッジは3331で最初にできなかった。最初は日比野克彦。コミッティに椿さんいるが最初にできなかった。 とはいえハードなことを年間に何本も入れている。
2015-11-03 13:46:14中村「今日は3331は全室埋まっている。一方で建築の展示があり秋田の展示あり、それらがゆるやかに近所で出会う設定をすることで、隙間が生まれプログラムがうまれるはずだ。
2015-11-03 13:46:39吉本「国際芸術祭は地域の活性化・創生が目的となっている。越後妻有でも地域の人が元気になることを強い使命感にしてる。また美術を故郷再生と観光の目玉にすることへ注意を促すが、行政目的のそれとどう違うか?
2015-11-03 13:46:56北川「地域と呼ばれる場所には人材が少ない。リストラが完了した。行政にも隙間がないし、若者がいない。だから外部から人が入るしか無い。 ちょっと頑張る組長がいるところは真剣だが・・・
2015-11-03 13:47:22北川「まじめに考えて日本画元気になり起死回生となるとか誰も思ってないのではないか。なだらかな落ち目の世界、絶望にいくのではないか。 自分の国方向をこうだと言えないのが70年前からそうで、基本的に何もできない国で、でもそれで生きる必要がある。
2015-11-03 13:47:52北川「そこで延命し地域が緩やかになれば良いとか思ってるが、手はない。それではマズイので、関係者などと明るい活動ができるギリギリなことをやるが、と言っても行政は(日本が起死回生すると考えておらず?)本気ではない。個人的にお金持ちになれるかもしれないが、長期的にはそのようなものだ。
2015-11-03 13:49:40北川「地域アートに関わるならどこまで行くんだっていうことを言うべき。 アイスブレイクで終わってるし50年前より質が低い。 ここに行くためにこうだ、と、言うべき。
2015-11-03 13:50:47北川「ファシリテーターとはどうでもいいところでめちゃめちゃ高い。 まちづくりのエースはアイスブレイクだ。 どこに持っていくか(というビジョン)を誰も言ってない。
2015-11-03 13:51:33中村「表現の1つとしてここまできただけで、キュレーターとかディレクターになるつもりはなかったが何でもやってきたことでこうなった。
2015-11-03 13:52:10中村「韓国へいった時はなだらかな絶望があった。そこで自分を見つめなおした。街の観察することで町の人の活動がクリエイティブに見え、彼らと私は同等でしかないと思った。そして中村上展となる。
2015-11-03 13:52:43中村「もの派とポストもの派の流れによりアートが重くて苦しかった。 それを打ち破ることを議論した。上にはニューウェーブの人たちもいたが、自由になるためにどうするか、そこでギンブラートとなる。
2015-11-03 13:53:06中村「ギンブラートをしたが、しかし街には規制がある。 そこに立ち向かうことで社会にどうあるべきか考えるようになった自分の表現でアイデンティティを組み立てながら行っている。
2015-11-03 13:53:43