- senkan_mikasa
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今日は、比叡ちゃんの進水日(1912)。そして、金剛ちゃん撃沈の 日(1944)です。 毎年鎮守府では、妹の誕生日を祝おうとする金剛ちゃんと、複雑な表情で遠慮する比叡ちゃんという、語るも涙聞くも涙な情景が繰り返されてます、ぐすん。
2014-11-21 18:59:58さて、なぜ今日が機雷特別警戒日かというと。 1916年英病院船ブリタニック、1939年日本貨客船照国丸が機雷によって沈没した日だからです。 まあ、他の日でもたくさんの艦船が機雷で沈んでいますが、お話にはキッカケというものが必要ですので…
2013-11-21 17:42:35まずは照国丸ちゃんのお話。 時は既に第二次世界大戦に突入。ただしこの時点ではまだ日本は連合国に敵対しておらず、日本郵船による欧州航路はまだ活動していました。 照国丸ちゃんは欧州戦線の開戦(9月)のあと日本を発ち、スエズ経由でロンドンに向かっていました。 #三笠の昔話
2013-11-21 18:06:58第一次大戦でのUボートの脅威を踏まえ、英国はテムズ川河口に機雷源を敷設していました。 照国丸ちゃんは手続きに従い、河口の泊地で税関検査と水先案内人の確保を済ませ、ロンドンへ向かおうとした矢先・・・ #三笠の昔話
2013-11-21 18:41:32「浮遊機雷警報」が発せられ、河口で照国丸ちゃんは足止めを食ってしまいました。 ※「浮遊機雷」については後ほどご説明します。 #三笠の昔話
2013-11-21 18:43:24英海軍による掃海作業が済み、航路が開けたという連絡を受けた照国丸ちゃんは、それでも警戒を緩めず見張りを多く立てて、ロンドンへ向けて進み始めた、その瞬間! #三笠の昔話
2013-11-21 18:48:02船首に轟音と衝撃。瞬く間に船体は傾き、座礁させて沈没を免れようとする努力も空しく横転沈没。 幸い、乗客はほとんど途上のマルセイユで下船し残りわずかだったこと、このような事態を想定して事前に避難訓練を行っていたことから、乗員乗客全員が無事生還できました。 #三笠の昔話
2013-11-21 18:56:03日本政府は、機雷の主を求め英国・独国両方に回答を求めますが、両国とも責任のなすりつけあいに終始し、結局真相は闇の中。 #三笠の昔話
2013-11-21 19:04:43その後も、日本郵船は欧州航路の提供を続けましたが、同様の戦禍に遭うことはなく、戦争参戦により欧州航路が中止されるまで安全に運行を続けました。 #三笠の昔話
2013-11-21 19:15:41ちなみに、姉妹船の靖国丸ちゃんも欧州航路に就航していましたが、戦時は潜水母艦として徴用され、1944年トラック島沖で米潜水艦により撃沈されています。 照国丸ちゃんも、もしこの事件がなかったとしても、戦争を生き延びれたかどうか・・・ #三笠の昔話
2013-11-21 19:21:09もうひとつの触雷、1916年ブリタニック号ちゃんのお話です。 ブリタニック号・・・と聞くとピンと来る方もいらっしゃるかと思いますが。そう。あのタイタニック号ちゃんの姉妹船です。 #三笠の昔話
2013-11-21 22:18:01ブリタニック号ちゃんはその建造中に第一次世界大戦が始まったため、就役と同時に病院船として徴用されていました。 病院船は、船体に専用の塗装を施すことを条件に、戦時でも攻撃対象から除外されなければならない旨がいわゆる「戦時国際法」で定められています。 #三笠の昔話
2013-11-21 22:26:26しかし、エーゲ海へ向かう航行のさなか、触雷し沈没。 触雷から沈没まで1時間足らずという、姉のタイタニック号ちゃん(氷山接触から沈没まで2時間半)よりも短い脱出時間だったにも関わらず、死者はわずかに21人という結果でした。 #三笠の昔話
2013-11-21 22:30:581500人以上の犠牲者を出したタイタニック号ちゃんに比べ、なぜブリタニック号ちゃんが犠牲者を出さずに済んだか、というと。 単に、「救命ボートがいっぱい積んであったから」です。犠牲者の21名は、運悪くスクリューに激突してしまった救命ボートの乗員でした。 #三笠の昔話
2013-11-21 22:42:45沈みゆく病院船ブリタニックちゃん。 upload.wikimedia.org/wikipedia/comm… pic.twitter.com/BhSqO8tRae
2016-11-21 19:14:21ブリタニック号ちゃんには、タイタニック号ちゃんの教訓も踏まえてダメコン機能も搭載していましたが、こちらはダメコン機能があまり理解されていなかったせいで運用に失敗。しかし、救命ボート不足で多数の死者を出した教訓が活きた、というわけです。 #三笠の昔話
2013-11-21 22:44:56さて、機雷の話に戻りましょう。 機雷の歴史は1854年のクリミア戦争に遡ります。当時最新鋭兵器だった機雷は、その威力と得体の知れなさゆえに絶大な効果をもたらしました。 #三笠の昔話
2013-11-21 22:58:37今ではノーベル賞にその名を残す発明家アルフレッド・ノーベルも、その当時の機雷開発に携わっていた、と言われています。 #三笠の昔話
2013-11-21 22:59:48日露戦争でも、機雷は使用されました。 旅順攻略戦では、日露双方が旅順港周辺に機雷をばらまき、日本は戦艦八島さん・初瀬姉さま、露海軍は戦艦ペトロパブロフスクさん(初代)とマカロフ提督を喪っています。 #三笠の昔話
2013-11-21 23:02:05機雷は海の地雷ですから、大変危険です。通常は機雷が漂流してしまわないよう係留索を設けるのですが、何かのはずみで漂流してしまうと、敵味方問わず大変なことになってしまいます。
2013-11-21 23:08:47こういった、係留索からはずれてしまった機雷を「浮遊機雷」と言います。 朝鮮戦争の際、この浮遊機雷が原因で、日本の青函連絡船がしばらく運休となったこともあるぐらいです。
2013-11-21 23:10:25機雷は、現代においては、ペルシャ湾や紅海において問題になることが多いですね。 タンカーや輸送船は機雷でイチコロですから、戦後処理での機雷掃海や、テロに対する予防策などが必要になり、自衛隊がお呼ばれしたりする事態になるわけです。
2013-11-21 23:13:02湾岸戦争後のPKO活動で自衛隊の掃海艇が派遣されたりもしましたが、あれは、決してボランティアなどではなく、日本へ原油を運ぶタンカーを守るための絶対必要な任務だったのです。
2013-11-21 23:14:44