高声をを出してよいところは、聖と俗との境界である門前や市庭、祭りの場、戦場という境界性ののある場所であった。したがって、浄土真宗の門徒や時衆が、日常のなかで高声で称える念仏(高声念仏)や和讃は、鎌倉幕府側からの攻撃、弾圧の理由ともなりえたのである。 「一遍 捨聖の思想」 桜井哲夫
2019-04-06 23:37:13網野は、浄土系の和讃や高声念仏が自由に発展していたら、西欧のキリスト教音楽のような独自の歌謡が発展したのではないか、と述べている。 「一遍 捨聖の思想」 桜井哲夫
2019-04-06 23:37:14一巻から十二巻まで三巡して、臨終の場面が心に染みる ひとりの人間の総体を理解させられるということだろうか そして、その後の侍従僧の入水に共感に近い何かを感じた この場面は前期は模本の展示 真本の展示される後期にもう一度見に行く #一遍聖絵
2019-04-22 23:16:11絵としてみれば七巻がハイライトなのだろう この巻だけ東京国立博物館蔵となった由来もそこにあるのかも知れない でも、これはやはり全巻通して見るべきものと感じた ひとりの非凡な宗教者のライフヒストリー そうすると例えば雨宿りをしている場面は描かれなければならなかったことが分かってくる
2019-04-23 23:59:26わが国で、広く一般庶民に仏教を浸透させたのは一遍であると私は思っています。一遍は一生を旅のうちに過ごしました。お寺をひとつも建てませんでした。人びとが集まったところが「道場」。そこで「踊り念仏」をしてはまた次の場所に移っていく。まさに「遊行聖」としての一生でした。京博へゴー
2019-04-21 10:57:04「一遍聖絵」はわが国仏教芸術の最高傑作のひとつです。そして中世の実態を知らせてくれる重要な歴史資料です。一遍をリーダーとする時衆(時宗)の集団が全国を遍歴する旅の様子が詳細に描かれています。遍歴の民・遊行の民がわが国の精神文化に強い影響を及ぼしたことはもっと知られるべきです
2019-04-21 13:11:13「時間イメージ」について考えようとするときに、一遍聖絵という名の絵巻物を見た際に感じたことなどを手掛かりにしてみても良いのかもしれないと思った twitter.com/gmbo2008/statu… twitter.com/gmbo2008/statu… twitter.com/gmbo2008/statu… #眼がスクリーンになるとき #一遍聖絵
2019-05-12 14:21:34そこには音声が無いと指摘されるかも知れないが、かつては傍らに琵琶法師のような語り手がいたと考えてもいいし.見るものが自ずと口に出す言葉もあるだろう その前にそこには「念仏」がある #一遍聖絵
2019-05-12 14:21:34それって絵巻物とおなじ世界じゃないかとこの間見てきた一遍聖絵を思い浮かべながら考える マンガの遠い源流の一つに絵巻物があるとして、ページやコマ割りによって失われたものがそこにはある 例えば視点の自由度だったり一覧性といったもの twitter.com/yoookd/status/…
2019-06-05 23:33:20漫画の展覧会は原画の一部を展示するのが王道キュレーションだと思うけど、本来は本になっていてページ順に読んでいくものだから、上記の「柳の木」のように全ページ展示されてると本領発揮で素晴らしい。大英博物館マンガ展は自由に読める漫画コーナーがあるのもすごく良い。#MangaExhibition
2019-06-05 18:04:49巻四から巻七と巻十二が良い 巻三までと比べて巻四から絵の質が違う 人物が少し大きくなって、人物それぞれにポーズや表情が描き分けられている 生き生きとしている 構成も考えられたものになっている 背景や建物と人物のバランスで後者の比重が増している #一遍聖絵
2019-06-09 22:24:47福岡の市、因幡堂、伴野、小田切どれもいい絵だと思う そして、巻五、小野寺や常陸国の名のある場所でも画期的な出来事が描かれているわけではない場面で一遍とそれに付き従って歩く者たちの姿 そこには歩くことの喜びと辛さが現れている #一遍聖絵
2019-06-09 22:24:49巻七が絵巻でも一遍の生涯でもピークと言えるかもしれない 観衆を熱狂させるロックスターのようだ ただ、一遍の歩く姿は見られなくなり、集団の中に埋没していくように描かれている 巻十二で描かれている一遍の臨終ののち海に入水する僧は、巻五で一遍とともに歩いた人たちなのだろうと思う #一遍聖絵
2019-06-09 22:24:50もう一つ、臨終の場面を見ていて、集まった人々の衣装が豪華というほどではないがみな整っているのに気付いた それは当時の庶民の姿ではないように思える 巻四から巻七ではもっと多様な階層の人たちが描かれていた #一遍聖絵
2019-06-09 22:24:51ただ、群衆の左端、少し間を開けて荷を担ぎながら立つ女性だけは、質素な服装で描かれている あるいは、その女性こそが一遍とともに歩くべき人なのかもしれないと思いながら、なんども見直していた #一遍聖絵あ
2019-06-09 22:24:51歩きオタクというカテゴリーがあるならば、彼我に同じ匂いを感じる 歩くことは孤独な行いではない たとえ1人で歩いていても同行二人なんだ #一遍聖絵
2019-06-09 22:24:52(一遍聖絵は)十二巻もの大部で、当時の最高級の材料を使い、最近の流行である宋元画風を織り交ぜた、一遍を主人公としたロードムービー、最上級のエンターテイメントであった。 「社寺参詣曼荼羅としての一遍聖絵」 瀬谷愛 『国宝一遍聖絵の全貌』
2019-07-22 22:41:01そうして鑑賞者は、美しい絵と一遍の歌、諸国の物語に心を動かされるとき、自然と信仰心も生まれるように導かれていく。 「社寺参詣曼荼羅としての一遍聖絵」 瀬谷愛 『国宝一遍聖絵の全貌』
2019-07-22 22:41:03それにしても、臨終を間近にした一遍と、駆け寄ろうとする聖戒が見つめ合う姿には、互いに人として相手と向き合う関係が表現されているように思える。 「絵師が立てる建築」 冨島義幸 『一遍聖絵の全貌』所収
2019-07-22 23:22:04『一遍聖絵』が表現したかったのは、一遍がおこす奇跡や奇瑞よりも、むしろ生身の人間としての信仰の伝え方だったのではないか。一遍が超越的存在の祖師としてではなく、一人の人間として人々と向かい合うーーその舞台としてのリアリティーある風景や建築の描写。 「絵師が立てる建築」 冨島義幸
2019-07-22 23:22:06このリアリティーこそが『一遍聖絵』の個性であり今日でもなお、われわれを引きつける魅力なのだろう。 「絵師が立てる建築」 冨島義幸 『一遍聖絵の全貌』所収
2019-07-22 23:22:07遊行寺(清浄光寺) こじんまりと骨董市をやっている pic.twitter.com/74ivhIopgr
2019-09-01 08:55:04