- kaleidotheater
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@Zahlangabe 素人の感想で申し訳ないのですが、そういう立場だとすると、タルスキ意味論で文の意味を解釈するのってすごく無謀ですよね。
2011-01-30 22:36:04@ytb_at_twt ああ、言われてみればそうですね。しかし根源的解釈でやってることは発話に対する肯定/否定パターンの対応付けだと思うんですけどね。
2011-01-30 22:42:32@ytb_at_twt ええと、そうか、根源的解釈は発話に対する肯定/否定パターンから、「話者の言語解釈」だけでなく「話者の信念」も導いているのだから、肯定/否定パターンをそのままタルスキ意味論の「真理条件」として使うわけではないのでした。
2011-01-30 22:49:53@zahlangabe これがどういうことなのか質問したいところですが、140字じゃ無理ですよねw>「発話に対して話者が肯定/否定の反応を返す条件」という、発話と話者の関係の成立条件
2011-01-30 22:55:36@kaleidotheater ええと、確かにこの表現はちょっと分かりにくいというか不正確ですね。ちょっと待ってください。
2011-01-30 23:01:33@kaleidotheater ああ、すみません、わざわざ「発話」という概念も持ち出したのは不正確というか間違ってました。「文に対して話者が肯定/否定の反応を返す条件」でよかった。僕のソースにしていたダメットでもそうなっていました。@ytb_at_twt さんにもすみません。
2011-01-30 23:11:06@zahlangabe なるほど、大分スッキリしました。しかし、その場合「話者」というのは、当該の文の発話者なのですか? そうだとすると、自分で発話した文について肯定/否定の反応を返す、というのがどういうことなのか分からずにいます。
2011-01-30 23:14:15@kaleidotheater この場合の「話者」は「言語話者」という意味ですね。「被解釈者」と言ってもよいです。
2011-01-30 23:15:43@kaleidotheater それから、「肯定/否定の反応を返す条件」というより「話者が文を真だと〈みなす〉条件」と言うべきでした。
2011-01-30 23:22:52@kaleidotheater 要するに「他者の発話Uに肯定の反応を返す」のも「自分からUと発話する」のも大して変わらんだろう、と少々ルーズに考えていた次第です。
2011-01-30 23:24:48@zahlangabe うーん、「言語話者」というのは、その言語を母語とする人、という意味でしょうか。「被解釈者」という用語も知らないのですが、その人の発話した文が誰かに解釈される人、という意味でしょうか(どちらかあるいは両方が違う気がします)。
2011-01-30 23:25:48@kaleidotheater デイヴィドソン本人の考え方を文字通り取ると、一つの言語というのはある特定の人によってある特定の時期にのみ話されるようなものであって、「母語」という概念はほとんど意味を成さないと思うのです(が、ダメットのデイヴィドソン解釈がそうなっているだけかも)。
2011-01-30 23:31:58@kaleidotheater なので、とりあえずここでは「その人の発話した文が誰かに解釈されている人」の方でOKです。
2011-01-30 23:35:05@zahlangabe まぁ、それはそうなのですが、共通部分がなければコミュニケーションには使えないし、サイエンスの対象にはならないわけです。ってサイエンスの対象にならないことは哲学者には問題にならないかもと思いつつ。>ある特定の人によってある特定の時期にのみ話されるようなもの
2011-01-30 23:41:23@zahlangabe これなら、形式意味論での見解とほぼ一致すると思います。>肯定/否定の反応を返す条件」というより「話者が文を真だと〈みなす〉条件
2011-01-30 23:42:48@kaleidotheater そうですね、ちょっと私の言い方がルーズで混乱を招いてしまったようです。すみません。あと、デイヴィドソン本人に立ち返ろうとしすぎたのもちょっと分かりにくかったですね。(続)
2011-01-30 23:51:43@kaleidotheater (承前)しかし、形式意味論をやってる方の枠組みは思った以上にデイヴィドソンに忠実だなという印象を受けました。先ほどの「言語というのは特定の人が特定の時期にのみ話すもの」ではあるが、「共通部分」があって、そこはサイエンスになるだろう、という(続)
2011-01-30 23:54:56@kaleidotheater (承前)点も、「真理条件」を「話者が文を真とみなす条件」と考える点も。しかし、言われてみれば経験科学として形式意味論をやるとき、他には考えようがないのかもしれない。デイヴィドソンは偉いのだなと思いました。ぐだぐだ書いてすみません。
2011-01-31 00:00:20それで話は戻るのですが、「真理条件」が「話者が文を真だとみなす条件」のことだとするとき、外延の等しい語を代入しても真理条件が不変である、というのは、それほど当たり前の話なのか、と思うのですよね。@ytb_at_twt @kaleidotheater
2011-01-31 00:07:38ツイートが連続するときは(続)を入れることにした途端、しょうもない話しか続かなかったという罠。すみません。
2011-01-31 00:12:55@Zahlangabe ただ、一方で、フライパン話とか、結果的に意味論が外延的になることをデイヴィッドソンは望んでいたのだと思います。つまり、彼は、自分の意味論のミクロ的な構造(話者のみなし)がマクロ的な性質(外延性)を満たすことを示さなかった、といえるのでしょうか。
2011-01-31 00:26:58