牢人さんいらっしゃい(大坂夏の陣2016、三日目)

仮想実況まとめと紹介。
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だいたい戦国紹介bot @sanrakuken

【実況 #大坂の陣 5/8 巳の刻/大坂城】浅井井頼の逃亡 豊臣方の助命嘆願の使者として常高院と共にの徳川方の陣に滞在していた浅井井頼は井伊直孝隊が大坂城へ向かったのを知ると、もはや助命もかなわないと悟り、徳川方の陣から姿を消した。

2016-05-08 10:40:19
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【浅井井頼】浅井一族の出自で長政の三男とも養子とも伝わる。小谷落城時に逃れ、羽柴秀次、増田長盛を経て関ヶ原前から生駒氏に仕えた。大坂の陣で大坂方へ参陣すると、夏の陣で討死した。ただし、脱出して姉の常高院を頼り、余生を過ごしたとも伝わる。真田十勇士の根津甚八のモデルという。

2016-05-08 10:50:08
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【実況 #大坂の陣 5/8 午の上刻/大坂城】井伊直孝の包囲 幕府方は首尾よく大坂城であった場所へと進軍すると、先鋒の井伊直孝隊は山里郭へ突入。井伊直孝隊は豊臣秀頼らが籠っている蔵を発見すると、これを兵に包囲させ、やがて一斉射撃を開始した。

2016-05-08 11:00:29
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【実況 #大坂の陣 5/8 午の上刻/大坂城】浅井政高の切腹 豊臣方の浅井政高は豊臣秀頼らの助命嘆願をすべく徳川方の陣へ向かっていたが、その途中、大坂城側から銃声が鳴り響くのを聞くと、嘆願はすでに遅いと悟り、主君らに先立って切腹して果てたという。

2016-05-08 11:10:18
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【浅井政高】出自は不明だが、はじめ生田姓、次いで田尾姓を名乗った。浅井久政の弟にあたる田屋明政の娘、海津局を娶ったため浅井長政の義理の従兄弟にあたり、浅井姓を名乗った。妻が淀殿の側近を務めた関係から羽柴秀吉に仕えた。大坂の陣に参戦し、大坂落城を見届けて自害を遂げた。

2016-05-08 11:20:08
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【実況 #大坂の陣 5/8 午の上刻/大坂城】豊臣秀頼の最期 千姫や常高院による助命嘆願が認められること待っていた豊臣秀頼主従だったが、四方から銃声が鳴り響くと、今はそれも叶わなかったことを知る。1615年5月8日、毛利勝永の介錯で豊臣秀頼は切腹。短く壮絶な人生を締めくくった。

2016-05-08 11:30:20
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【豊臣秀頼】秀吉の子で母は淀殿。父の死後、五大老の後見で家督を継ぐが、関ヶ原合戦を機に政道を握った徳川家康が旧主君筋である豊臣に政権を返上する気がないと判断すると、徳川将軍家と対立。浪人を集めて大坂の陣に及ぶが、諸将の奮戦虚しく敗北。自害を遂げ、豊臣家はここに滅びた。

2016-05-08 11:35:03
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【淀殿】俗に茶々、菊子とも。浅井長政の長女で母はお市の方。父方の浅井氏が小谷城合戦で、母の再婚相手である柴田勝家が北ノ庄城合戦で滅ぼされると、二度の落城を経験した。羽柴秀吉に見初められるとその室に入り、豊臣秀頼の生母となった。秀頼と共に大坂の陣に臨むが、敗れて最期を遂げた。

2016-05-08 11:40:04
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【実況 #大坂の陣 5/8 午の刻/大坂城】豊臣秀頼の義士 豊臣秀頼や淀殿が最期を遂げると、毛利勝永や子の勝家、速水守久や真田幸昌といった武将から大蔵卿局、右京大夫局、和期局、饗庭局といった侍女や小姓、総勢32人の老若男女が豊臣家に殉じて次々と自害を遂げ、この世を去ったという。

2016-05-08 11:45:17
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【実況 #大坂の陣 5/8 午の刻/大坂城】大野治長の始末 諸将や侍女らが豊臣秀頼と淀殿に殉じた後、大野治長とその子の治徳だけはまだこの世にいた。治長は自害するわけでもなく、あらかじめ用意しておいた火薬へ火をつけると、主君の遺体が敵に晒されることのないよう蔵を大爆発させた。

2016-05-08 11:50:17
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【実況 #大坂の陣 5/8 午の刻/大坂城】大野治長の評価 蔵の大爆発は井伊直孝隊に少なからず損害を与え、その大爆発により豊臣秀頼の遺体はついに見つかることはなかったという。『扇物語』ではこの大野治長の行動と周到さを、武略にして敵味方を問わないあっぱれであると評されている。

2016-05-08 11:55:17
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【大野治長】豊臣家臣。大蔵卿局の子。母が淀君の乳母だったことから、豊臣秀頼近臣として信任を得て豊臣家執政となる。豊臣家と徳川家との対立が浮き彫りになると、穏健派の片桐且元らを追放して城内を主戦論で統一。浪人を集めて大坂の陣を引き起こすが敗北し、落城と共に自害を遂げた。

2016-05-08 12:00:13
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【大野治徳】豊臣家臣。大野治長の長子で祖母には大蔵卿局。豊臣家と徳川家の対立から大坂の陣が勃発すると冬の陣にて初陣し、大坂方の諸将を取りまとめる父を影ながら支えた。冬夏の両陣を経て豊臣家が幕府との決戦に敗れると、大坂城落城後に、豊臣秀頼や父と共に自害を遂げた。

2016-05-08 12:05:02
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【毛利勝永】豊臣家臣。関ヶ原では伏見城の戦いで目覚ましい活躍をするが、戦後改易。大坂の陣に際して入城。天王寺口の戦いでは本多忠朝隊をはじめ、敵主力部隊を次々に破ると徳川家康の本陣に突撃。大坂方で唯一最後まで戦線を維持したが、敗兵を収容して撤退すると秀頼の介錯を務め、自刃した。

2016-05-08 12:10:07
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【毛利勝家】勝永の長男。父が関ヶ原合戦で改易され、配流された先の土佐で生まれた。幕府との対立を深めた豊臣氏が浪人を招集すると、父に連れられて大坂城へ入城。冬夏の両陣に参ずると、父譲りの武勇で首級を挙げる活躍をみせたが、敗戦すると、大坂落城時に父や豊臣秀頼とともに自刃した。

2016-05-08 12:15:07
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【速水守久】豊臣家臣。はじめ浅井氏に仕えた。主家滅亡後、淀君の家臣として秀吉の配下となると、秀吉の直属護衛部隊七手組の筆頭組頭となる。大坂の陣の際には中立の立場を取り、片桐且元と大野治長の調停に奔走する。開戦後は鴫野の戦いなどで活躍するが、落城に際して秀頼に殉じて自害。

2016-05-08 12:20:07
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【氏家行広】氏家卜全の嫡男。兄の死後、家督を継ぐ。小田原出兵などで活躍。関ヶ原では中立を保つが圧力に屈し、やむなく西軍についたため戦後改易される。旧領復帰を目指して、大坂の陣の際に大坂城へ入城すると大坂方として従軍。家康に仕官を呼びかけられるが断り、落城とともに自刃した。

2016-05-08 12:25:03
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【真田幸昌】信繁の長男。大助の通称が著名。父や祖父の昌幸が関ヶ原合戦で配流された先の九度山で生まれた。父に従って大坂城へ入城し、大坂の陣では父と共に各地で活躍したが、天王寺合戦では途中から秀頼の警護にあたった。敗戦が濃厚になると脱出を勧められたが拒否し、豊臣秀頼に殉じて自刃。

2016-05-08 12:30:07
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【赤座直規】豊臣家臣。尾張国の出自のため、朝倉家に仕えて越前で栄えた赤座直保らの一族とは縁戚にあたると考えられる。羽柴秀吉に仕え、豊臣秀頼の側近に選ばれた。大坂の陣にも参戦し、大坂落城と秀頼自刃の瞬間まで主君の傍を離れることなく、その命運を豊臣家と共にした。

2016-05-08 12:35:07
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【内藤長秋】田屋明政の子で母は饗庭局。浅井氏の出自で浅井長政の従兄弟にあたり、浅井氏滅亡後は母と共に淀殿に仕えた。淀殿が羽柴秀吉の室に入った後は羽柴家に仕え、大坂の陣でも豊臣方に味方した。落城すると、三十二義士の一人として母と共に秀頼に殉じたが、若江の戦いで討死したとも伝わる。

2016-05-08 12:40:10
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【実況 #大坂の陣 5/8 午の刻/茶臼山】井伊直孝の報告 井伊直孝隊は爆破された蔵の火の手が収まるのを待って豊臣秀頼らの遺体収容を試みたが、ついにその遺体を見つけることはできず、その旨を徳川家康に報告。家康は特にこだわる様子を見せず、「大義であった」と直孝をねぎらったという。

2016-05-08 12:45:18
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【実況 #大坂の陣 5/8 午の刻/大坂】露の夢 つい昨日まで、そこに聳え立っていた摩天楼は影もなく、天下の政情を覆そうと闘志を燃やしたそこにいたはずの猛者達も、ある者は戦火の中に命を落とし、ある者は夢適わずと悟り城を去った。今日、長らく願われた泰平の世が無常の上に成り立った。

2016-05-08 12:50:17
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【実況 #大坂の陣 戦火の後】 さて、豊臣秀頼や義士たちの死によって豊臣家は滅び、150年続いた戦国時代が終わりを告げた。しかし、何人かの武将達にとって、大坂の陣はまだ終わってはいませんでした。ここからは様々な武将の大坂の陣のその後を紹介させていただきます。

2016-05-08 12:55:07
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【実況 #大坂の陣 戦火の後】大野治房の最期 豊臣秀頼の遺児の国松丸を抱いて大坂城から姿を晦ました大野治房であったが、徳川方の厳しい警戒線を潜り抜けることは適わず、捕えられて斬首された。しかし、たびたび生存説が流れて幕府が都度捜索を行っていることから、取り逃したとも考えられる。

2016-05-08 13:00:13
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【大野治房】豊臣家臣。大坂の陣が勃発すると、兄の治長とともに主戦派の中核となるが後に対立。夏の陣の岡山口の戦いでは幕府方の軍勢を次々に破って徳川秀忠の本陣へ突入したが、秀忠を討てずに撤退。秀頼の遺児の国松丸を擁して大坂城を脱出する途中、捕えられ斬首されたが、生存説も存在する。

2016-05-08 13:05:05