ある寛文蝦夷蜂起バカが突発的に松前へ行ったときの話と萌え語り
- akasaki_198
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蔵人廣林は正廣系蔵人流蠣崎家(蠣崎宗家)、主殿廣隆は守廣系主殿流蠣崎家の生まれで、この両家は初代藩主松前慶廣の弟達から派生した家系。慶廣の退場後、慶廣孫の公廣が藩主となり、家老職や重役となって藩主を支えた両家だけど、どーも藩主を挟んで権力争いがあった様子。
2014-11-13 12:20:10蠣崎蔵人廣林と蠣崎主殿廣隆、松前寛文家老ズの出生背景を追っていたら蠣崎慶廣と蠣崎正廣の兄弟にぶちあたり、そこからまた寛文へ下っていくと、慶廣の息子松前景廣の存在が浮き上がってきて、蔵人廣林と主殿廣隆の両家各勢力のほかに、景廣と下国家による勢力が見え隠れするようになったんじゃよ。
2014-11-14 02:03:14寛文期松前の派閥勢力っぽいものを整理すると、正廣系蔵人流蠣崎家(蔵人廣林)を中心とした新参家臣団(厚谷、桜庭、新井田とか)の一派、守廣系主殿流蠣崎家(主殿廣隆)を中心とした一派、守廣系を隠れ蓑にした河野系松前家(景廣の一族)と下国家の一派、がある気がしたの。
2014-11-14 02:10:25ここで、寛文期松前家老の蠣崎蔵人廣林と、『真珠の耳飾りの少女』でおなじみオランダの画家フェルメールが、僅か2歳差というムダ知識をツイートします。
2015-06-22 22:14:03蠣崎波響に呼ばれた(?)
今日は風も吹かなくて暑かったんですが、涼しい風が吹いてきて「わぁい、やったぁ」と風上を向いたら、波響のお墓が目の前にあって、まじびっくりした。風が吹かなかったら波響に気づくのが遅くなってた……
2016-05-04 00:17:07おこがましいと思いつつも、呼ばれたんじゃなかろうかと信じたい心理から、こんな波響が頭から離れなくなったので放流。 photozou.jp/photo/show/555…
2016-05-07 23:44:44■赤崎版・波響 photozou.jp/photo/show/555… 松前藩家老にして、適山の師。とっても温厚なひとだったらすぃ。 ■適山まわりざっくり相関図 photozou.jp/photo/show/555… 勢いでまとめた。
2015-01-28 00:17:51蠣崎波響は松前藩家老であり、当時の藩主道廣の異母弟です。道廣の言動やロシア外交との緊張、商人との摩擦、アイヌとの衝突、現福島への移封、そこからの再起、これだけでもドラマ一本いけます、どうでしょう。
2016-02-28 21:26:37蠣崎波響の弟子のうち、高橋波藍(松前藩士)・蠣崎波鶩(波響の息子)・熊坂適山(過去の号は波玉、松前藩御用絵師)は外せないと思っているですよ。彼らは松前が蝦夷地へ復領し、国内外の情勢と文化に通じながら、藩主崇廣と生きた人たちです。いわば、波響の時代から幕末を生きたひとたちですだ。
2015-11-12 22:01:16松前城資料館にて
松前城資料館が確実に私を仕留めにきてた。適山と蘭斎の生絵があるやないですか!! p.twipple.jp/P7ynL
2016-05-03 13:50:19松前城資料館の波響門人5人 photozou.jp/photo/show/555… まさか波響の弟子の絵が揃っているとは、ここで適山と蘭斎に会えるとは思わなかったですよ。
2016-05-07 23:47:56松前城資料館にある適山の画は、金で線が描き足されていて、素朴に見せつつ子洒落た画でした。そんで画法がいくつか組み合わさって描かれている様子。丸めの岩や山のほかに四角い松や山が。こっそり幾何学的。
2016-05-08 01:31:50大原呑響は波響と親交のあった人物、波島は波響の弟子、今村三峰は適山の弟子だそうです。そんで昨年、フォロワーさんが松前城へ行ったときより画人の解説が増えている様子。波香は一行しかなかったのが、略歴までついた! やったね!
2016-05-07 23:57:45松前藩の画人の話
高橋波藍は生没年不詳、人物画に秀でた。夷酋列像を模写して他藩に贈り、その他肖像画や仙人なども書く。後に江戸詰となる。息子の波香も人物画を得意とし、藩主松前崇廣の肖像画を描いていた。
2015-10-17 23:14:07蠣崎波鶩は1797年生~1874年没、花鳥画に秀でた。波響の息子だけあって波響から波鶩への画稿がある。波鶩は画人としてより、松前家老として活躍の機会が多かった。波鶩の息子は松前勘解由であり、藩主崇廣に仕えてコンニャク問答で有名になった人。
2015-10-17 23:20:01波鶩さんは松前城が落成した1853年に家老を辞職するのだけど、また家老へ戻っているんだな。タイミング的には蝦夷地が一部再び天領となって梁川・東根・尾花沢が松前領となった1855年(安政2年)。翌年波鶩の息子勘解由が正式に家老となり、適山が勘定方になるなど、人事に変化が出るですよ。
2015-08-09 01:32:42波鶩といえば、松前城資料館最上階に展示されていた、波鶩本人の写真があったのですが、すんげえ嫌そうな顔をしていたのが印象深かったです。崇廣と勘解由さんに撮らされたんじゃなかろーかと妄想が捗ります。いや、生まれつきのしかめ面系の顔立ちなのかもしれない……。
2016-05-08 00:01:04熊坂適山は1796年生~1864年没、山水画に秀でた。波響のもとで学んでいたときの号が波玉。京都や長崎大分と旅をして画力をみがく。後に松前藩御用絵師となり、役職を掛け持つようになる。実弟の蘭斎は藩医にして蘭学者、藩主崇廣の指導にあたったという。
2015-10-17 23:25:32