高島章弁護士がRTしていた「正義」についての収集と、正義についての考察
民衆の正義がときに法の正義を超えるとしても、それに従ったとき、その者は革命家であり、もはや法律家ではない。また、民衆の正義が法の正義が超えることを容認するのは立憲的ではない。
2016-06-17 23:16:57札幌/弁護士24年目/弁理士/猟師/個人+中小企業/労使ともども/刑事・少年/非行事実なし・嫌疑無し不起訴いくつか/ コンサポ/嫌いなもの:供述の変遷 011-272-1266。blog.goo.ne.jp/nakamuralawoff…
「反動的」とは便利な言葉だ。自分が正義で相手が悪だと定義すれば、自分はいかなる手段でも許されるという理論。立場逆転が絶対ないと盲信するからこそ成り立つ理屈だ>さる弁護士「民衆の正義は法の正義を乗り越え作り替える… togetter.com/li/985489
2016-06-17 16:57:50大衆の正義という言葉で自らを正当化する…まるでムッソリーニやヒトラーみたいだぁ ムッソリーニもヒトラーも民衆が生み出した人の欲望の怪物って..「さる弁護士「民衆の正義は法の正義を乗り越え作り替える…そのダイナミズムを理解..」 togetter.com/li/985489#c279…
2016-06-11 11:36:40.@yurodivy1 さんのコメント「ロールズの正義論は、社会の正規の構成員たる自国民の間の公正について語ったものであり、外国人は公正の範囲に含まれていない。どうやったらロ..」にいいね!しました。 togetter.com/li/898897#c228…
2015-11-16 14:19:44さる弁護士「民衆の正義は法の正義を乗り越え作り替える…そのダイナミズムを理解できないのは『反動的法律家』」 - Togetterまとめ togetter.com/li/985489 @togetter_jpさんから
2016-06-17 13:27:04.@GIB78345oak さんの「さる弁護士「民衆の正義は法の正義を乗り越え作り替える…そのダイナミズムを理解できないのは『反動的法律家』」」をお気に入りにしました。 togetter.com/li/985489
2016-06-17 13:27:10「民衆」とか「正義」とかという言葉は、私の感性では恥ずかしくて使えない言葉。「民衆」という言葉は「民衆訴訟」とか専門用語で使ったことはあるかな。「正義」についても刑事訴訟法の上告理由とかで使ったことはある。あとは、法哲学のメタ的議論。
2016-06-17 13:37:46ケルゼンが「正義」という観念を理解しない、正義に対して冷笑的な人だったみたいな意見もあるようだが、それは違うだろう。人間は誰しも生来の・あるいは教育による・日常生活により正義という観念を備えている。ケルゼンも同様だろう。
2016-06-17 14:28:31問題は、そのような(自明とされていて、ことさらの懐疑によらなければ否定しえない)「正義」のような観念を法律学に持ち込むかどうかという、ある意味方法論の問題だろう。純粋法学は「正義」という観念を議論の対象・議論の方法として持ち込むことを意図的に拒否したに過ぎない。
2016-06-17 14:31:15正義だけでなく、社会学的事実・存在、価値、神、歴史その他、「規範」「当為」とは無縁の要素を法律学から追放した。だからこその純粋法学である。
2016-06-17 14:34:10このような方法論・純粋性の追究は、人間が生来的に持っている自然的思考(客観的正義が存在するはずだ)人工的・実験的思考である。ケルゼンはそれを殊更に徹底的にわざとやっているに過ぎない。
2016-06-17 14:36:57例えば(変な例だが)、人間は誰でも「緑」という色を知っていて、緑という色彩が好きだ。ひねくれた画家が、「緑色の絵の具を使わないで絵を描いてみるとこんな風景画が描けますよ」という実験的絵画を作品として発表するようなもの。
2016-06-17 14:39:24だから、純粋法学は、二重の意味で不自然なのである。第1義は「反自然法」という意味で「不自然な法学」である。第2に「人間の自然な思考」から著しくかい離しているという意味で「不自然な法学」である。だから、純粋法学を読み解くにはー実証主義を貫くためにはー日常的な自然的思考
2016-06-17 14:42:40を頭から追放してー規範・意思・当為ー以外の要素(「正義・理性・神」)を考慮しないという純粋性が必要となってくる。頭の使い方としてとても技巧的なものだから、ケルゼンを読むと頭がおかしくなる。
2016-06-17 14:44:45ケルゼンは、「法律学から不純な要素ー正義とか神とか歴史とか理性とかーを取り去るとこんなに美しい・純粋な世界が描けますよ」という芸術作品を見せてくれているのであり、それ以上の意味はない。
2016-06-17 14:46:27このような純粋法学を作品鑑賞者がどのような感じ、どのように利用するかは、需給者が自由に決めればよいことでナチスに利用されようがスターリンに利用されようが、それはケルゼンの責任ではない。利用者・需給者の責任でケルゼンに罪はない。放射線科学者に原爆製造の責任がないのと同じ話だ。
2016-06-17 14:49:16正義を熱く語らない(実は、デモクラシー論では少しだけ熱く語っている)、法律学から正義を追放したケルゼンは「冷笑主義者」だとののしるのは結構だが、ケルゼンは墓の中で喜んでいるだろう。
2016-06-17 14:51:15@BarlKarth このような方法論・純粋性の追究は、人間が生来的に持っている自然的思考(客観的正義が存在するはずだ)と対極にある人工的・実験的思考である。ケルゼンはそれを殊更に徹底的にわざとやっているに過ぎない。 (訂正)。
2016-06-17 14:53:15@BarlKarth 「存在から当為は導き出せない」「事実から価値を導き出せない」という二元論もーある種の哲学では自明とされているーよく反省すれば人間の自然的で素朴な思考法に反している。
2016-06-17 14:55:30