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#浅葱小説 2016/06/20 「昔感じたあの思いは」 - Togetterまとめ togetter.com/li/989892
2016-06-20 21:54:47「……お腹すいた」
不意に、お腹の痛みと、えもいわれぬ空虚な感覚に襲われる。時計を見ればもう夜の九時を回っていて、それはお腹もすくだろうと、変に納得した。
「なんか食べるものは」
椅子から腰を浮かしかけ、またすぐ座り直す。そうだ、まだ食料を仕入れていないんだった。買いに行こうにもスーパーなんかは閉まっているだろうし、コンビニは最寄りの場所でも30分以上かかる。
「やってしまった……」
栃木の田舎から、東京の大学を目指し二年半。友人たちが恋に遊びにはげむなか一人で努力し、両親の心配を振り切りやっとの思いで一人暮らしを勝ち取ったかと思いきや、初日からこれである。母さん、あなたの忠告をもっとちゃんときいておくべきだった。
さて、しかしこうなった以上選択肢は多くはなく、夜間外出の危険をおかして買い物に行くか、あきらめて本の続きを読むか、の二つであろう。
しばしのあいだ悩むふりをして、最初から決めてあったその答えに、私は小さく手を伸ばす。
そうだ、夜間に家を出るのは危ない。東京では毎日どこかで殺人と婦女暴行が起きていると聞くし、ましてや紫式部にも匹敵するほどの美しさを誇る私など、家を出るや否や、瞬きをする暇もないほどの一瞬のうちに拉致監禁されてしまう事だろう。
小説の中には無限大の世界が広がっている。描写されることは少ないが、きっと美味しい食べ物がいっぱいあるに違いない。その世界に没頭し楽しむことさえできれば、現実の肉体の空腹などすぐに忘れてしまう事だろう。事実つい先ほどまで忘れていた。
本を再び開き、視線を落とす。最初の一行に目を通し、その意味を咀嚼しようとして、もう一度その行を読み、また一度読み返す。
全く進まない。
空腹がこれほどに苦しいものだと思ったことはなかった。いや、苦痛かといえばさして苦痛というほどではないのだが、まったく集中力が湧いてこない。普段だったらスラスラ読めるくだらない大衆小説を、ただの一行すら読み進めることができない。どうにも血糖の不足というのは文化人にとって予想以上に大きな問題らしい。
いっそもう寝てしまおうか。小説をたたみ、ベッドに寝転がる。そうして、ふと、空腹から生じる、ある小さな感情に気づいた。
少し、寂しい。
親元を離れた寂しさかと思ったが、どうにもそういうわけではなさそうだ。そういった、感傷的な感情ではない。どちらかというと、もっとノスタルジックな、懐かしさに近い感情。
目を閉じ、記憶をたどる。どこかで私は、こんな感情を経験しているはずだ。
とうとうと流れる記憶の中、あれやこれやの様々な体験と経験に、私は、ある思い出を見る。
あれは小学一年生か、それくらいの頃。母さんの知り合いの、突然の不幸で、私が一人留守番をしていた時だ。
夜の八時を過ぎても母さんは家に帰る気配を見せず、ほんの少しだけ、涙を流したあの日。
当時はそれをただ寂しさだとか、心細さのように感じていたが、今になってようやく、何となくだが、その心の正体がわかった。
私はベッドから立ち上がり、かばんを持って玄関の戸を開ける。
そうだ、あの時感じた気持ちは、そして今もやまないこの気持ちは……。
「死への恐怖だ」
人は、こと我々日本人は、一日三食お腹いっぱい食べれることに慣れている。習慣的に一定量以上の食事をすることに慣れきっている。
つまりこれは、その習慣を逸脱し、普段決して感じることの無い極限に近い状態の空腹を知らせるアラートなんだ。これ以上食事をしない状態が続けば身体に異常をきたすと、そう伝えているんだ。
部屋の鍵を閉め、歩きながらスマホで一番近いコンビニを探す。
「あ」
スマホはこういう時に便利だ。なにせ、私の知らないことを何でも知っている。
「最寄りのスーパー二十四時間営業じゃん」
踵を返し、街への一歩を踏み出す。空腹はもはや限界だ。