JUDY AND MARY「そばかす」の歌詞を意味や音のつながりという観点から鑑賞する

TVアニメ『るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-』のOPだった「そばかす」の歌詞について方法論的に考えてみました。
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料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

歌詞を追っていくと、「あの人」という表現は出てきても、「あなた」は出てきません。言いかえると、一人称「あたし」と三人称「あの人」にかんする歌であり、それゆえに内省的、自分の心の中で自分を慰めるような自問自答の歌という形式をとっています。

2011-06-05 03:19:00
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

つまり、歌詞の主体というものを中心に置いて、1,主体の動作や感情をとらえる。2,主体が見ている/見てきた景色をとらえる。 RT @yaoki_dokidoki (written with http://usehw.com) http://twitpic.com/56ycu4

2011-06-05 03:25:32
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料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

僕が今いった散文的で一次元的な読解というのは、たとえばこのような読みときかたをしようとするものです。

2011-06-05 03:26:39
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

したがって、今僕がやった読解は、述語に対して常に主語を補い結びつけながら、主体に何があったのか、何が主体に近くされたのかを徹底的に追って、できごとがおきた時間を想像しながらその順番に並び替えていって物語を再構成しようとする読解です。

2011-06-05 03:30:30
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

これに付け加えたい読解方法があります。

2011-06-05 03:31:36
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

それは、「押韻による論理」というものの見方です。

2011-06-05 03:34:39
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

前はなしたものの実践篇というか、ほんとうはこういうのがやりたくて押韻の形式化とかをやってきました。

2011-06-05 03:35:17
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

今述べたような読解方法なら、別に歌詞を音楽として聴く必要は全くなく、作詞家やアーティストの人生やアーティストイメージの構成を調べ、あるいは社会における「女性」の一般的イメージを想定し、それを主体と仮定して記述を淡々と読解していけばいいだけですね。

2011-06-05 03:37:16
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

そういう読解においては「そこに出現したことばは基本的に1回しか使われないことば」と見なされていると僕は思います。散文は繰りかえし読まれることをあまり想定していないと思われるからです。

2011-06-05 03:39:01
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

それでは僕たちは音楽をどのように聴いているのか、音楽形式という形からとらえてみましょう。

2011-06-05 03:39:42
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

僕たちはテレビドラマやアニメの物語を見たり、町中で風景を感受したりするとき、「くりかえし」というものを意識的に発見しようとはしないでしょう。たとえくりかえしの要素が風景にあったとしても、それを一過性(二度と再現されない)のものと「見なして」感受しているのではないでしょうか。

2011-06-05 03:41:59
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

落ち葉が道へ落ちていったり、子供の声が聞こえたり、サラリーマンが殺されたり、魔法少女が魔女になったりする。そういうことをそれぞれ一過性の特殊なイベントとして見ている。

2011-06-05 03:43:38
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

音楽、とくに歌を聴くとき、僕たちはおおまかにそれを「1番」や「2番」のようにききわけることができます。

2011-06-05 03:45:51
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

歌詞の「2番」とは、「1番」と似たようなものが繰りかえされるときに言います。実際、そこではAメロ、Bメロ、サビといったセットがまるごと繰りかえされたりします。

2011-06-05 03:47:07
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

僕たちが音楽を聴くときには、単に受動的に展開を追っているだけではなく、どこからどこまでがひとくぎりで、どこから繰りかえしが始まるのか、それを意識しながら聴いているのだと思われます。

2011-06-05 03:48:12
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

逆に言えば、僕たちはそのような繰りかえしの構成によって作曲された歌を聴くことによって知らず知らずのうちに「聴く態度」を教育されているのだと思われます。

2011-06-05 03:49:14
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

アニメであれば、その歌自体が1クールに渡って何度もオープニングを飾り、くりかえしとして僕たちの耳に入り込んできます。また、CDを買えば1~2回だけしか楽しまないなんてことはなく、50回、60回と聞くでしょう。

2011-06-05 03:52:00
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

音楽、歌を聴くということは、その中に「くりかえし」を発見し、さらにその「くりかえし」のなかにも微細な「ちがい」があるのだということを発見しながら楽しんでいくことだろうと、一般的に言えると思います。

2011-06-05 03:53:13
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

音楽でふつうにわかる繰りかえしの最大単位は再生回数、最小単位は拍やビートです。

2011-06-05 03:55:54
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

そこで僕がこうではないかと考えたのが、歌詞において繰りかえしが発見されるときにも僕たちの耳は「教育」された聴き方にしたがってそれを「くりかえし」と認識しようとしているのではないだろうかという仮説です。

2011-06-05 03:57:32
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

だから先に述べたことと合わせると、僕たちは歌詞を読むことで目からは歌詞を一過性の、再現性のないイベントたちの記述として読み取ろうとしながら、耳からは歌詞のことばをくりかえされる構造として聞きとるように「教育」「訓練」されているのではないだろうか。そう言いたいのです。

2011-06-05 04:01:34
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

もちろんこれは話題を限定してわかりやすく話すためのレトリックであり、歌詞には耳から入って頭の中で文字や映像に置き換えられるイメージ的な読み取り方もあれば、目から記号的にかたちの印象や対句の発見といったかたちでの文学的・詩的な読み取り方もあります。しかしここでは省きます。

2011-06-05 04:04:04
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

そこで、ことばの音におけるくりかえし、つまり押韻について考えます。すると、僕たちは音楽のくりかえしをききとるぐらいの能力はあるのだから、押韻ということばの音のくりかえしをききとるぐらいの能力もあるだろうと考えられます。

2011-06-05 04:08:43
料理研究家 やおき @yaoki_dokidoki

では、音のくりかえしを発見した場合、ぼくたちはどのような歌詞の読解をできるのだろうかということについて、実感から仮説を提案してみたいと思います。

2011-06-05 04:10:58
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