『言説分析の可能性』を読んでみた。
図書館に文書が集積されるという事態が歴史的日付をもつものであり、また図書館における文書の所蔵・配置は図書館固有の合理性に基づいて行われる以上、そこでの配置を支える合理性を復元することは図書館の合理性を復元することにしかならないのではないか、という不安でしょうか。
2014-04-16 10:33:52そうした文書の配置に規則性があることにことさら驚いてみせ、それを権力の証拠として言い立てるとき、ひとは図書館の権力効果を暴き立てているに過ぎない。それを権力一般理論に変換するには、図書館を社会と同一視するという操作が必要となるが、その操作は妥当性をもたない、という感じでしょうか。
2014-04-16 10:38:48「ディスクール分析は図書館において開始され、図書館でその死を遂げる。だからフーコーはかろうじで、図書館という存在を、すべての言説を吊り下げる虚焦点として、歴史的に相対化することはできるだろう」
2014-04-16 10:40:35「ある歴史性の平面において、さまざまに出自を違える異質な文字文書を分類・整序する〈権力のテクノロジー〉としての図書館―フーコーが口ごもりつつ「近代の」と形容する権力の発動形態を見るとき、これほど都合のよい空間はほかにないのだから。」
2014-04-16 10:42:32「しかし、ディスクール分析の論理的位相において、テクノロジーは権力を補完するように見えるのだが、実は、〈権力-の-テクノロジー〉の後ろの項、すなわちテクノロジーの方こそが逆に考古学者の権力についての語りを規定しているのではなかろうか?」
2014-04-16 10:44:01「フーコーの「権力」の定義の中には、文書/書かれたものとしてのディスクールがすでに織り込み済みであった(からこそ効果的に「権力」分析が描き出せた)わけだが、その定義を一旦外してしまえば、」
2014-04-16 10:46:07「《書物に書き込まれた言説の配置が、権力の所在を示す》という超越論的ともいいうる前提は信頼性を失ってしまうのではなかろうか?」北田論文p62
2014-04-16 10:46:23こうした「権力」の理解がフーコーの言っていることの理解として妥当なのか疑問もありますが、しかしひとまず「書物に書き込まれた言説の配置が、権力の所在を示す」という前提を図書館という場所から考え直してみよう、というのはひとまず正しそうですね。
2014-04-16 10:51:09言語資料が基本的には文書として残され、それゆえに文書を所蔵する図書館・文書館が特権的場所でありえたというメディア環境において妥当性をもつ分析が、グラムフォンやフィルムの登場によって大きく変容した別の環境では妥当性を失う、という感じでしょうか。
2014-04-16 10:56:34「特定の歴史の実定性の中においてのみ言説が権力と共犯関係を持つにいたった、という考古学の前提を健忘しつつ、歴史を貫通してあたかも言語行為speech actそのものが《力》を内包しているかのような錯視―歴史学における「言語論的転回」―を」
2014-04-16 10:59:14「理論に仕立てあげてしまうというやり方もあるにはある。考古学の思考を健全なことにも消去する後者の流儀によるならば、ディスクール分析は歴史記述・社会学の一方法論としてしかるべき地位を確保され、十九世紀以前/以降の社会にあまねく適用されうるだろう」北田論文pp.62-63
2014-04-16 11:00:44歴史研究をするときに、アーカイブのコレクションとかがどのように構築されているかを事前に調べましょう、コレクションの編成原理を理解してから使いましょう、程度の話だと教科書にのってそうなはなしですね。
2014-04-16 11:47:10もしコレクションの編成原理が、当時のテクストの編成原理と大きく異なる場合には注意が必要ですね。そして、この原理の違いからコレクションに重大な漏れがある可能性がありますね、って話もまあそうですよね。
2014-04-16 11:48:30それ以上先に進むとなると、どうなるのでしょうか?そもそも、テクストの群れがある種の原理によって編成するとことが可能であるという理解がすでに図書館というテクノロジーが登場した後の発想だよね、ということまで言われているのでしょうか。
2014-04-16 11:49:29大量のテクストを読めば、それらのテクスト群を統御している編成原理を理解できるはずだという信念は、テクスト群がテクスト群として独自の秩序を形成しているはずだ、という感覚をあてにしているが、こうしたテクスト偏重的感覚が通用するのは十九世紀に限定的な的なものだ、ということでしょうか?
2014-04-16 11:52:36「むしろ、言説/書かれたものに権力の所在証明を担保させるというディスクール分析の語りの文法そのものが、特定の「書き込み/刻み込みのシステムAufschreibesysteme」の効果にほかならないということ、」
2014-04-16 11:55:13「もっとはっきり言うなら、そもそも特定の時代において「何が言説であるか」を規定するのは『知の考古学』を携えた考古学者その人ではなく、言説をデータとして処理するコミュニケーション・システム(ルーマン)そのものでありということ」
2014-04-16 11:57:08「―ある意味、考古学を徹底されたところにごく自然にあらわれるこうした自覚のうえにキットラーのテクストは築かれている」北田論文p64
2014-04-16 11:57:11