『言説分析の可能性』を読んでみた。
「ある歴史の平面において、社会/制度(言説編成)の成り立ちに接続可能な形で使用される言質、あるいは、「社会/制度の成り立ちに接続可能な形で使用される言質である」と考古学者によって認定される《何か》それがディスクール分析の最小単位=エノンセにほかならない」北田論文p65
2014-04-17 21:08:01「社会/制度の成り立ちに接続可能な形で使用される言質」というのがなんなのかよくわかりませんが、重要なのはここで「ディスクール分析の最小単位とはなにか」が使用の問題と結び伝いると確認するのは重要な気がしますね。
2014-04-17 21:16:47「〈ディスクール分析の最小単位とは何か〉という問いは、考古学者に対してではなく、ただしく歴史/社会に流通する言説の回路にむけられなくてはならない」北田論文p66
2014-04-17 21:18:22「エノンセを意味論の縛りから解放した考古学者が、使用へと /強調 接続されることのない/物質に対していかめしい不寛容を見せたとしても、何の不思議もあるまい(中略)当然「手にしうる一握りの印刷活字、あるいはまた、タイプライターの鍵版のうえに示された諸文字は、言表を構成しない」。」
2014-04-17 21:30:14動画や音声を記録できるようになる前の世界と、なった後の世界でテクストを書くこと/読むことの意味が変わるというのはそうだと思いますね。
2014-04-17 22:49:39そしてなぜそれが問題かというと分析者が対象とは無関係に勝手に状況の定義をもちこむことへの批判がある、ということだと思うんですね。
2014-04-17 22:51:57「ルーマンの精力的な仕事によって「「社会学的分析の最小単位」を分析者がアプリオリに定めることの不可能性」を無視することができなくなった社会学者が、キットラーをどのように受け止めていくことができるのか」
2014-04-17 22:56:02オートポイエーシスが何か良く分かりませんが、たぶんこれは研究対象がいかに自己の論理に従って自己自身の活動を組織しているのかを描こうぜ、という主張ですよね。その活動を可能にしている論理を無視して分析者である社会学者が勝手に枠組み押し付けるの良くないよね、って話ですよね。
2014-04-17 22:58:20