ヴィシー政府について

しまんちゅさん(@simasyodes)によるヴィシー政府(940年7月11日~1944年8月25日)のお話し。
4
島の人Part2 @simasyodes

海軍はドイツ占領後に国外へ逃れており植民地だったアルジェリアのメールエルケビール軍港に退避していた。

2015-04-21 13:38:56
島の人Part2 @simasyodes

7月3日そこへイギリスは「敵に奪われるぐらいなら」とフランス海軍を攻撃したのだ。これにより戦艦「ブルターニュ」が撃沈された。9月にダカールにいた戦艦「リシュリュー」も攻撃を受けて、後にアメリカへ回航された。(7月4日ヴィシー政府はイギリスと断交している)

2015-04-21 13:42:47
島の人Part2 @simasyodes

保養地だったヴィシーの地が「首都」に選ばれた理由は、都市部にすると党派間の争いがあり、それが「薄い地盤」であること。温泉が湧いてホテルが多かったので政府施設として使える建物があったことがある。

2015-04-21 13:46:12
島の人Part2 @simasyodes

発足当初のヴィシー政府はイギリスがドイツに屈服すればパリに戻れると「楽観的」であった。ドイツ寄りの政策を立てドゴールを死刑宣告(本人は亡命してるので欠席裁判)し、第一次世界大戦で失ったアルザス、ロレーヌ地方がドイツが戻された。

2015-04-21 13:47:45
島の人Part2 @simasyodes

ペタン自身が反共主義的でソ連に対してドイツが防波堤になるとしたり、フランスの国是である「自由、平等、博愛」がフランスを「軟弱」にしたという認識があって右派に近い考えだった。

2015-04-21 13:48:36
島の人Part2 @simasyodes

ペタンは10月19日「国民革命」を打ち出し「労働、家族、祖国」を新たなフランスの国是とした。

2015-04-21 13:49:15
島の人Part2 @simasyodes

ヴィシーは休戦条約でドイツに「駐留費(賠償金に近い)」を支払うことになり1日4億フランを負担。150万のフランス軍捕虜がおり、言わば「人質」としてドイツの要求に抗しきれず応じていた。

2015-04-21 13:54:03
島の人Part2 @simasyodes

しかしまだドイツは納得しなかった。フランス国内のナチに思想が近い右派政党は援助、ペタンはドイツに非協力的と非難させてフランス国内を事実上分断した。

2015-04-21 13:55:20
島の人Part2 @simasyodes

9月13日ドイツ占領地域とヴィシー政府の管轄地域の往来を厳しく制限する。20日ダカールにいた海軍がイギリスに攻撃され、対英感情がまた悪くなったヴィシー政府は表面上「中立」としながらドイツ寄りに舵を切る。

2015-04-21 13:57:19
島の人Part2 @simasyodes

10月22日ラヴァル(ヴィシー政府副首相)24日ペタンと会見したヒトラーはフランスが希望した海外植民地の処遇については触れず先送りにされた。

2015-04-21 13:59:01
島の人Part2 @simasyodes

ラヴァルはペタンがあくまでも表面上の「中立」に拘ったので更にドイツ寄りの政策を強く望んだ。クーデターを警戒したペタンはラヴァルを免職して自宅軟禁とした。

2015-04-21 14:00:02
島の人Part2 @simasyodes

ドイツの駐仏大使アベッツはラヴァルと親しく彼の失脚に激怒。ヴィシー政府からの後任フランダンは信頼されず、イギリス軍と交戦経験がある海軍提督のダルランが後任に就任した。

2015-04-21 14:01:45
島の人Part2 @simasyodes

1941年4月にイラクで親独勢力が蜂起する。シリアの統治があるヴィシー政府はこれを好機を捉えるも連合軍の攻撃により5月には敗退。5月28日「パリ議定書」に調印。シリアの基地をドイツが使用できる代わりに駐留費は3億フランに減額され、8万人のフランス軍捕虜が返還された。

2015-04-21 14:03:28
島の人Part2 @simasyodes

しかし7月14日にはシリアは亡命政府の自由フランス軍とイギリス軍に「解放」されてしまう。同じ日には仏印インドシナに日本軍が進駐を要求。ヴィシー政府の頼りであった海外植民地の安定ができなくなった。

2015-04-21 14:05:17
島の人Part2 @simasyodes

1941年6月独ソ戦が開始されヨーロッパでのドイツの勝利さえ危うくなってきた。

2015-04-21 14:06:00
島の人Part2 @simasyodes

1942年のヴィシー政府予算は約1420億フランだがドイツには約1690億を支払い、財政を圧迫。管轄地域にはワイン以外は特に産業がなくドイツ占領地域のフランス北部から物資は「輸入」する有り様だった。

2015-04-21 14:07:29
島の人Part2 @simasyodes

1942年4月19日自宅軟禁のラヴァルはヴィシー政府首相に「復権」する。ドイツの圧力だった。ペタンは「名誉職」となった国家主席に止まった。

2015-04-21 14:08:40
島の人Part2 @simasyodes

名目上「中立」だったヴィシー政府はラヴァルが首相になり完全にドイツ寄り(つうか傀儡)の政権となった。

2015-04-21 14:10:22
島の人Part2 @simasyodes

しかしヴィシー政府がいくらドイツに「寄り添った政策」をしても要求はエスカレートして資源や物資を奪うドイツにフランス国内では不満が高まる。

2015-04-21 14:11:59
島の人Part2 @simasyodes

1942年11月11日モロッコとアルジェリアでヴィシー政府から派遣されていたダルランが連合軍と停戦してしまう 。またしてもヴィシー政府は海外植民地を連合軍に「解放」してしまった。

2015-04-21 14:14:26
島の人Part2 @simasyodes

これにヒトラーはヴィシー政府の「忠誠」を疑って管轄地域にドイツ軍を進駐させ、トゥーロン軍港のフランス海軍も接収しようするも、休戦条約違反と海軍が反発。戦艦「プロヴァンス」「ダンケルク」「ストラスブール」3隻を含む巡洋艦7駆逐艦26を「自沈」させた。(トゥーロンの悲劇と呼ばれる)

2015-04-21 14:18:22
島の人Part2 @simasyodes

頼みの海軍力は失われ、海外植民地の安定はなくヴィシー政府が当初持っていた「切り札」はもうなくなった。

2015-04-21 14:20:31
島の人Part2 @simasyodes

ヒトラーはこの頃「人望のあるペタンを一種の亡霊のようにして、我々の側に置いておかなくてはならなん。それがしぼんできたら、ラヴァルを使って時々膨らましてやればいい」と述べている。

2015-04-21 14:26:10
島の人Part2 @simasyodes

ヴィシー政府は3年余りで目指していた「主権国家」とは程遠いものとなっていた。

2015-04-21 14:26:44
島の人Part2 @simasyodes

1944年6月6日「Dデー」ことノルマンディー上陸作戦が発動。フランス国内にも連合軍が入ってきた。

2015-04-21 14:28:06