ヴィシー政府について
話は前後するが前年12月15日駐留費をドイツは5億フランに「値上げ」1943年2月にはドイツがスターリングラードで敗れ、ドイツ敗北が現実味を帯びてくる。1941年には1000人程度のレジスタンスが1942年末は約7万人になっていた。
2015-04-21 14:33:18ドイツの旗色が悪くなるとヴィシー政府内でもペタンがアフリカに渡り、連合国の「寝返り」が画策されたが中立に拘ったペタンはこれを拒絶している。
2015-04-21 14:35:35この頃になるとヴィシー政府はドイツの「行政機関」となり1943年2月にフランスからドイツ国内工場への「徴用」が始まり、志願者や捕虜含め約165万人が労働力を提供した。(65万人は強制)
2015-04-21 14:40:09話は戻る。ヴィシー政府はなくなったが名があったペタンをドイツも捨て置けず、ドイツ南部ジグリマリゲンにあるエンツォレンルン家の古城に移送した。
2015-04-21 14:45:58「私は皆さんの剣になれなかったかもしれないが、皆さんの盾になろうとしたのです」8月20日フランスを離れる時のペタンの言葉
2015-04-21 14:47:051945年5月9日ドイツ敗戦 ヨーロッパの戦争は終わった。かつてヴィシー政府に死刑宣告をされたドゴールが今度はペタンを7月23日に「ドイツに協力した者」として裁いた。
2015-04-21 14:48:37「私に権力を授与したのは、国民議会によって代表されるフランス国民であった。私は、生涯をフランスのために捧げた。いかに年老い、疲れ果てていても、私は常にフランスの訴えに応じてきた。(つづく)
2015-04-21 14:50:31そして、フランス史上最大の悲劇に際し、フランスは今一度私に助けを求め、それに応じた。私の政府は、合法的に樹立されたものであり、それはローマ法王からソ連に至るまで、世界の列強すべての承認を受けた。(つづく)
2015-04-21 14:51:14今日、私の反対派の人々は、やむを得なかった不可避の事態の責を私にかぶせて非難することにのみ大童(おおわらわ)となっている。だが、私のために諸君が何を免れることができたか、その全貌を、やがて歴史が諸君の前に明らかにするであろう」
2015-04-21 14:52:44戦争によりフランスでの「対独協力者」への風当たりは強く、ドイツ軍人と交際していた女性が公衆の面前で丸坊主にされたりしてる。
2015-04-21 14:53:50ドイツ占領地とヴィシー政府管轄地域との「優位差」は特になく、またヴィシー政府の頼りがドイツの勝利だったというのは日本とよく似ている。
2015-04-21 14:55:441945年8月15日(奇しくも日本の終戦記念日)にペタンは死刑判決を受けるも17日ドゴールの特赦により終身禁固刑となった。(89歳となっていたペタンが高齢の為)ペタンはブルターニュ半島にあるユー島に服役1951年95歳で死去した。
2015-04-21 14:57:40ドゴールの戦後の回想「あの人も、ダルランの代わりにアルジェリアに向かっていれば、白馬に乗ってパリへ凱旋することもできたのに・・・」
2015-04-21 14:58:29参考文献 対独協力の歴史 ジャン ドフラーヌ (著) 大久保 敏彦 松本 真一郎 (訳) 占領下パリの思想家たち 桜井 哲夫 歴史群像09年4月号 「ヴィシー憂鬱の政権」 山崎雅弘
2015-04-21 14:59:43お疲れ様でした。ありがとございます(*´ω`*)