私家版ハイデガースタディー07 カント書の有限者の回復 自我探しの原理的終焉
- sunamajiri
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そうそう、書こうと思って書けるのはカント講義書の論旨になったカントの「根源的直感」、つまり神の産出力ぐらいで、有限者がつい書いちゃうためには、ホテル暮らしが必須よね。ホテルに缶詰になったら、私ならガーガー寝ちゃうが(^-^)/ @LitoSnowfield
2015-08-06 09:15:10ハイデガーが悪文のお手本のようになるといえば、@estei_st さんの twitter.com/estei_st/statu… を拝読。例のナチ絶賛のように読まれる74節に至る箇所についてだった。@LitoSnowfield
2015-08-06 21:05:27@sunamajiri これですね。これでもかなり要約されているのです(笑)『存在と時間』第73節~第74節 twitter.com/estei_st/statu… このあたり『存在と時間』を語る際にあまり注目されないので残念です。面白いのに。
2015-08-04 13:18:00実は前半読みやすい高田珠樹が、このあたりになると読みづらくなる。前半な文意で換言できていたのが、後半になると用語の新訳だけで、読みづらい、それでもその箇所は訳注で、こんな感じ。@estei_st さん pic.twitter.com/kk6Dwo2JsM
2015-08-06 21:26:52歴史が個々人による偶然の継起ではなく運命だというのは、単純な歴史的過去、つまりカントが最終的に依拠した通俗的な時間規定によっては、等根源性としての既在と将来という超越論的時間規定、すなわち本来の歴史と自然の事象性に迫れない、という話の箇所よね。@estei_st
2015-08-06 21:31:10今は過去で将来は今だという時間を規定とする話なので、言い換えちゃうと、民族の命運も個々人の偶然を規定とした産物ではなく、脱自する運命が互いにいわば共鳴しあうことで、民族や世界歴史なども生起する、といったような話で、これを短絡したらナチズムになるのかしらね。@estei_st
2015-08-06 21:39:26むしろ、終末論やニヒリズムとなるような通俗的な時間解釈を非本来性の彼方に追いやるために、後半は終末論とは何かを、悪戦苦闘して語っていて、高田訳のような訳し方になると、なおさらぶっ飛んだ悪文が目立つ印象だ。詩だと思って読めばいいのだが。@estei_st
2015-08-06 21:44:12ハイデガーがカント講義書では、カント用語で本来の超越論的時間規定を立証するのだが、存在と時間ではデカルトとカントの対象などの用語を避けて、実存範疇の話になり、本来的=超越論的時間規定としての歴史と自然の話になるようだが、後半は高田訳より @estei_st さんの方が読みやすい。
2015-08-06 22:00:41高田珠樹が「先駆的決意性」を「先駆ける果敢さ」と単語訳するのは、つらいものがあるのだが、要はハイデガーの転回後に決意性が不要になるように、非本来性=通俗的時間規定も、超越論的時間規定によって不要=本来化するので、カント書以降にメタボレーする、というのは頷ける。@estei_st
2015-08-06 22:04:44@sunamajiri 思い出しました、高橋巌さんのシュタイナーを読んでいて思いついたことをひとつ…シュタイナー哲学のキモは、それまでのドイツ観念論を継承しつつ、理性による存在の認識を超え、意思は(これまでにない)新たな存在を想像する力を持つ、というところにあると思いました。
2015-08-06 22:49:52@sunamajiri ひょっとするとハイデガーも同様のことを考えていたのではないか?つまり被投のうえでの企投、新たな価値を創造する、といったことの当時の表現がナチスへの期待だった、等。
2015-08-06 22:54:50@sunamajiri 面白いことにハイデガーもシュタイナーも、先人の哲学を引き受けながらも、解体し読み替える達人だったといえると思います。両者の生きた時期は重なっていますが、互いの哲学をどう評価していたのか、等。思いつくままに(すみません)。
2015-08-06 22:57:08主著と対照的にカント術語で語るカント講義書では、カントの言う根源的直感(自己原因の神の産出力)を持たない人間の派生的直感(対象を作り出さない認識)が、カントの言うカントの再生的想像力ではなく、生産的想像力を示唆していると、カントの可能性の中心を語るのです。@estei_st
2015-08-06 23:08:30カントが想像力を再性的能力としてしまったが、じつはそれは生産的想像力(構想力)bit.ly/1InXgCq ではないか、というのがカント講義書末尾の総括部、さらにカント書ではそれを有限的想像力を齎す超越論的時間地平と語るのです。@estei_st
2015-08-06 23:11:34ミヒャエル・エンデが、想像力の超越論性=産出力を、なんとかものそうとしてますよね。twitter.com/Michael_Ende_j… @estei_st それまでのドイツ観念論を継承しつつ、理性による存在の認識を超え、意思は(これまでにない)新たな存在を想像する力
2015-08-06 23:13:32想像力の問題は人間の自由の問題と切っても切り離せない。その存在の前提条件において、人間は決して自由ではないのだから。なぜなら、過去が形となったのが存在の前提条件なのだ。人間が自由なのは、自らの中から創造的に何かを生み出し、そうして自分の未来を形成することにおいてである。
2015-08-06 13:45:09リトさん、カント講義書(ハイデガー『カントの純粋理性批判の現象学的解釈』)の見取り図は、このあたりを道標にすると、掴めるはず。(^-^)/ twitter.com/sunamajiri/sta… @LitoSnowfield @estei_st
2015-08-07 06:46:18カント講義書は主著(存在と時間)とは違い、本来性などハイデガー用語が最低限だから文が読みやすいのだが、あえて本来非本来で見取り図にすると~ (続く) @LitoSnowfield @estei_st
2015-08-07 06:52:18カント講義書とは、根源的直感(カントの言う神の能力)を持たない有限者は、カントの言う再生的想像力では通俗的時間規定だが、本来的時間規定からみれば、生産的想像力を有していることになり、それが自然と歴史という超越論の根源規定だという話。@LitoSnowfield @estei_st
2015-08-07 06:55:07体系に触れようとする本だから、いくら主著のような悪文ではないとはいえ、見取り図がないと、何を読んでいるのか迷子になるよ。また体系的だからこそ見取り図が可能なのだ。@LitoSnowfield
2015-08-07 07:03:04人間はカントの言う根源的直感(神の産出力)を持たないが、カントが想像力(構想力)を再生的綜合(過去の想起)と規定したのに対して、本来の時間規定からは、生産的想像力(既在と将来の等根源)だ、というのが講義書。それがカント書の有限性の話に解消していく。@LitoSnowfield
2015-08-07 07:09:26カント講義書は主著以後なので主著の用語で綜合できるが、本来性というのは時間規定のことだから、カントが人間(派生的直感)は神(根源的直感)ではないとするために、想像力を過去の想起としたのは非本来的な時間規定で、生産的想像力こそ本来の時間規定だ、という。@LitoSnowfield
2015-08-07 07:33:14有限者は神のように認識対象の造物主ではないが、対象を同一視する認識論は、カントの言う再生的想像力=いわば想起では、対象がすぐに過去に過ぎ去るので、時間規定としては不十分。すぐに現在化する将来の同一性を時間規定にする存在論であるべきだ、という話ね。@LitoSnowfield
2015-08-07 07:33:39したがって、想起や流れ去る過去だけを時間規定とするカントの認識論では、存在論的には造物主が前提されているに過ぎない、というのがハイデガーの主張。人間が将来に同一化する存在論によってはじめて、造物主を前提としない、過去に縛られない時間規定が得られる。@LitoSnowfield
2015-08-07 07:39:54この過去にとらわれるな、前向きに未来を見ろ、というのがポジティブシンキングのようで、未来とは死のことで、その死を恐れず受け入れろ、というのが日本人が過去に陥った総玉砕みたいな危険思想に聴こえるのだろう。しかし過去にとらわれるのは単なる信仰だという。@LitoSnowfield
2015-08-07 07:42:00古人たちが言うように、確かに心は身体に受肉しているわけだが、それは時間として受肉しているのであって、何らかの物として入り込んでいるわけではない。どうか皆さんも「動いていない」自分が息づく空間に対する想像力を逞しくして欲しい。このとき空間は外的で疎遠な対象物などではなくなるはずだ。
2015-08-07 17:45:21