ある寛文蝦夷蜂起バカが松前に行った時の話 ~ 2ヶ月ぶり2回目編
- akasaki_198
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松前城GO photozou.jp/photo/show/555… 縮尺? なんですかそれは、難しいものはわかりませんねえ……
2016-07-25 21:20:07松前へ向かおうと函館を出たときは、雲が重たそうで「雨が降っちゃうんですか、やだーーーーーーーーーーーーー」とか思っていたら、着く前に晴れまして、何故か「波響先生……」ってなった。
2016-07-25 21:29:41松前安政組(幕末)編
松前勘解由さんからの宿題
蠣崎波響の孫にあたる人物。藩主崇廣の側用人をこなしたのち、家老になる。
松前勘解由さんは松前クーデターを経て切腹するのですが、その経緯から墓を立てることなくただ埋葬されて四角い石を置かれているだけであり、その場所は知っている人に案内してもらわないと分らないそうです。斎藤系松前家の墓所に勘解由さんのお墓があるにはあるのですが、謎めいてまいりました。
2016-07-25 22:00:36勘解由さんのお墓を見つけることはできなかったんだよ……。前回、見つけられなかった主殿廣隆は見つけることができたんだけど、およよ。
2016-07-25 22:15:33それと勘解由さんってペリーを応接したことで有名な上、写真が残っていますでしょ。色んな本にその写真が載っているのですが、あれこれ本を紹介いただいて本を開くたびに勘解由さんが出てきたのには笑いました。でもお墓を見つけられなかった……。
2016-07-25 22:16:30適山たち文化人の話
松前城資料館にある適山・蘭斎の画は、適山が弘化3年5月中旬頃のもの、蘭斎は慶応元年のもののようです。ちょと自信ない。 photozou.jp/photo/show/555…
2016-07-25 23:47:17弘化3年(1846年)だったら適山が、16世11代昌廣に仕えていた時期なので、松前で描いたものかもしれない。蘭斎の画は、乙丑と蘭斎以外は特定できていない……よめない……図録……図録はないのですか……松前城資料の図録が欲しいです……。
2016-07-25 23:58:01慶応元年だと崇廣公が老中から失脚した年であり、適山の一周忌で雅会を開いた年でもあるわけで、蘭斎がどんな状況にあったのか知れる画でもあるんだよなあ。でも読めない。ぐぬぬ。
2016-07-26 00:01:20適山と言えば松前に仕える前、自主的に松前へ来て当時の藩主章廣に挨拶をし、波響の墓前へ行っていたというのは知らなかった。松前町史通説編第一巻の下に載っていたんですよ。
2016-07-26 00:19:09てか、松前町史に適山の項目があったことにびっくりだよ。文化人たちの重鎮とかって書いてあった。もっと目立たない人だと思ってたよ僕ァ。
2016-07-26 00:26:03適山が重鎮扱いなら、殿や勘解由さんたちとふつーに会話していても不思議じゃないのか……。漫画的演出とか松前ならではとか、そーいうもんでもなくなってしまったミラクル。
2016-07-26 00:31:36町史ネタでいくと、崇廣の書道の師である石井潭香が松浦武四郎と友人同士だったというのもびっくりしたよ。そことつながるのぉぉぉ~~~? ってなった。人の縁って不思議ですね。
2016-07-26 00:39:44蝦夷地を自主的に探検したり、幕府からの命で訪れたりした人。「北海道」の名付け親と呼ばれる。
ちなみに、石井潭香の父親が幕府の役人。
町史ネタで猛プッシュしたいのが、いい笑顔の崇廣公は松前町史通説編第一巻の下にしっかり収録されていたってことですよ。「写真いやだ魂ぬかれるもん怖いもん」な時代に、いい笑顔で写る崇廣公が。ほんと好き。
2016-07-26 00:42:40蠣崎慶廣編
松前慶廣よりも、蠣崎慶廣と呼ぶほうがしっくりくる系。
慶廣の息子盛廣は、松前家代々の当主としてカウントされるけれど幕府に認定されなかったので、記録によってはカウントされていない現象に関し、「○世○代」と併記すると分りやすいというアドバイスをいただきました。だもんで、慶廣は五世初代、崇廣は十七世十二代、といった具合ですね。
2016-07-25 21:41:48