ある寛文蝦夷蜂起バカが松前に行った時の話 ~ 2ヶ月ぶり2回目編
- akasaki_198
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慶廣は秀吉のもとへ行った際に蝦夷錦を着て行った話で、蝦夷地の異色アピールというのが定番のところを「慶廣も前田や伊達のように傾いてみせたのでは」という一言で「その発想はなかったアアア」ってなった。確かにそうだ……。一度で三度おいしいことをする慶廣、というイメージがついてきますた。
2016-07-25 22:42:21慶廣の松前姓だって、これ、松平さんと前田さんから一文字ずつって言うのと、地元松前からっていうのとがあるし、更に言えば松前はもともといわゆるアイヌ語地名だしで、一度で三度おいしいことしよるんですよ。※赤崎の慶廣あげが激しい
2016-07-25 22:48:23しまった。慶廣で盛り上がりすぎて信廣から季廣のとっつぁんまでの話をちっともしていない。時間がなさすぎたんや。時計は見ていないけど2,3時間は話していた気がするゾ。
2016-07-25 23:03:23慶廣木像は慶長元年に造られたものだったんだ……知らなかった。だから松前城資料館の肖像画よりも木像の写真が用いられるのかな。より実際の姿に近い、のかもしれない。 資料館にある肖像画はこちら。photozou.jp/photo/show/555…
2016-07-26 21:24:34慶廣木像の背面に『慶長元年正月吉辰清和天皇七世新羅三郎義光末裔 松前伊豆守慶廣公御影 山王山院法印賢祐謹言』と記されているですよ。松前町教育委員会の『松前の文化財』に載っててん。
2016-07-26 21:35:30慶廣正廣兄弟は、同い年異母兄弟であるほか、双子でもないのにうまいこと左衛門右衛門の通称だった可能性もあってだな、なんだこいつらいつもセットかよってなるじゃん、そんな兄弟が家督相続で割れちまうんだぜ、なんでだよッ?!
2016-07-27 22:49:12慶廣の家系は後に松前氏となって栄え、正廣の家系は蠣崎宗家として家老に就くなどして松前の重役をこなすようになるですよ。慶廣正廣兄弟本人たちも熱いですが、その後の展開も熱いんやで。
2016-07-27 23:21:03正廣は自分の同母兄弟の多さを盾に、家督相続をめぐって慶廣に謀反を働いたというのが通説なわけですが、慶廣が正廣に対して直接手を下した形跡はなく、正廣去りし後は慶廣が正廣の同母兄弟を重用しているのを見ると、正廣の謀反は実際にあったんだろかって思ってる。
2016-07-27 23:27:55同母兄を亡くした過去のある慶廣と、同母弟を亡くしていた定廣とで仲が良かったから、正廣が謀反を諦めて去った、っていう記述もどうなの新羅之記録。
2016-07-27 23:32:31ショヤコウジvs光廣からの来国俊話に話が咲く系。来国俊は砥いで砥いで、その刀身が細くなってしまっているそうな。ずっと使われていたんだねえ。
2016-07-27 00:09:53もっと手にとりやすくなっているのは、『北海道戦国史と松前氏』でございます。新羅之記録は現代語訳もございますが、もとがビンテージものにつき表記に少々癖があります。北海道戦国史と松前氏は歴史に興味がある方でしたら、さらりと読みこなすことができましょう。どうぞお好みに合わせてお楽文字数
2016-07-26 22:35:40寛文蝦夷蜂起編
松前の耳塚の話。寛文蝦夷蜂起で討ち取られたシブチャリ軍の耳を埋めた塚なわけですが、現在の位置にあるのは移設されたものであり、当時の埋葬先とは異なります。その場所はどこであるのかまだ特定できていないそうで。
2016-07-26 23:47:45一本だけイナウがありましたね。昨年、静内の方々がイチャルパをしに来ていたはず。記録ではシャクシャインの首が塩漬けにされて松前まで持ってきたとあったはずなのですが、これはまた次回にでも聞いてみましょう。
2016-07-26 23:52:19シャクシャインと松前と言えば、1655年の福山会盟ですかね。松前藩主の高廣の前でシャクシャインとオニビシは和解を誓わされたという、アレですよ。このとき、後の松前軍総大将となる松前泰廣が江戸から帰郷していて、この会へ立ち会っていた可能性があるんですよ。ほんと胸熱。
2016-07-26 23:55:47