自衛ノ必要上

曩ニ満州ニ於イテ事変ノ勃発スルヤ自衛ノ必要上(1932年1月だっけ…)
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たかまるちゃん @takamaru1173

【アメリカの「中国」での権利って何?】1932年1月7日:「満洲事変」の後、米国務長官ヘンリー・スチムソンは、『支那の領土保全、門戸開放に違反し、「アメリカ国民の権利」を侵害するものは一切認めない』。アメリカが、日本と中国に、日本の満州占領不承認のスティムソン・ドクトリンを通告。

2016-06-23 16:18:07
efnran @efnran

📷 efnran: 01.07 1932年 - ヘンリー・スティムソン米国務長官が日本の満州占領を非難する「スティムソン・ドクトリン」を発表。 tmblr.co/ZEFe_x1-ObOcQ

2016-01-07 09:21:02
リンク CiNii Articles CiNii 論文 - スティムソン・ドクトリンと1930年代初頭のアメリカ外交 スティムソン・ドクトリンと1930年代初頭のアメリカ外交 中沢 志保 文化女子大学紀要. 人文・社会科学研究 19, 29-45, 2011-01

「 同(1931)年11月9日,出渕日本大使から幣原外相の融和的な返書52)(スティムソンは,日中両国に早期解決を促した連盟理事会の要望に従うよう勧告する覚書を11月3日付で日本に送付してい-35-た)53)を受け取り,「根本的な問題の解決に向けて努力する」とする日本政府の言葉が本当であれば,「事態は改善」に向かうかもしれないと記している。
 同年11月16日,日本が満州に傀儡政権を樹立するかもしれないとの特電を受け取り,スティムソンは幣原返書との食い違いに気付いた。「日本陸軍の行動を日本政府が止められないでいる」と記している。
 同年11月19日,朝食時に日本軍がチチハル(Tsitsihar)を占領したとの知らせを受ける。スティムソンは,日本軍の行動を「不戦条約および9カ国条約に違反する目に余る行動」と記す。出渕大使から,若槻(禮次郎),幣原(喜重郎),井上(準之助)の暗殺計画があったことを知らされ,「日本はもはやコントロール不能の狂犬(maddogs)のもとに権力が渡った」と述べ,「これまでの融和的な対日外交は挫折した」と記している。

 同年11月27日,日本軍が明らかに東京(政府)の指示を無視して進軍を開始したことを知り,「日本陸軍は迷走し,自らの政府すらも無視している」と述べた。同日,フーヴァー大統領に日本への経済制裁の必要を述べ,「世界中が(制裁に)参加すれば日本を早期に降伏させることができる」と訴えた。しかし,フーヴァーは制裁に反対の立場を変えなかった。」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110008616544

1931年11月17日にスティムソンが聞いた暗殺未遂は桜会のか(?)
「1930(昭和5)年に、陸軍の橋本欣五郎中佐(はしもときんごろう)らが結成した桜会は、1931(昭和6)年3月に宇垣一成陸軍大臣を首班とする軍部内閣の樹立を目指したクーデター計画(三月事件)、同年10月に荒木貞夫陸軍中将を首班とする軍部内閣樹立を目指したクーデター計画(十月事件)を実行しようとしますが、未遂に終わりました。」http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp80.html

不完全情報下での1932年1月8日勅語であったろうか… 

リンク CiNii Articles CiNii 論文 - 1920年代における財閥資本の編成替えと重化学工業化(満州事変-その勃発原因をさぐる-,共同研究) 1920年代における財閥資本の編成替えと重化学工業化(満州事変-その勃発原因をさぐる-,共同研究) 須江 國雄 紀要 29, 289-308, 2000-03-31

「 特に,重要なことは,1932(昭和7)年1月7日に,アメリカ国務長官のスチムソンは,日中両国に対して,中国の主権を侵略することを認めないスチムソン=ドクトリンを通告した.その翌日に,あたかもそれに挑戦するかのように,柳条湖事件以来の関東軍の「果断神速」の行動を全面的に賞賛する天皇の勅語が発せられたことである.
関東軍の独断的軍事行動は(=天皇の統帥権を犯したにもかかわらず),ここに最高かつ不可侵の承認を与えられ,日本国民の何人も,これを公然と批判する道を閉ざされてしまったのである3).」http://ci.nii.ac.jp/naid/110006159732

リンク CiNii Articles CiNii 論文 - 「満州事変」と日本の政軍関係 : 統帥権と天皇制 「満州事変」と日本の政軍関係 : 統帥権と天皇制 神田 文人 敬愛大学国際研究 3, 1-68, 1999-03

「政府が出先軍部の行動を追認した上ではどう仕様もなかったということでもある。こうした経緯を踏まえて、翌32年1月8日天皇は「関東軍への勅語」を発した(123)。

  • 曩ニ満洲ニ於テ事変ノ勃発スルヤ自衛ノ必要上関東軍ノ将兵ハ果断神速寡克ク衆ヲ制シ速ニ之ヲ芟討セリ爾来艱苦ヲ凌キ祁寒ニ堪ヘ各地ニ蜂起セル匪賊ヲ掃蕩シ克ク警備ノ任ヲ完ウシ或ハ嫩江斉々哈爾地方ニ或ハ遼西錦州地方ニ氷雪ヲ衝キ勇戦力闘以テ其禍根ヲ抜キテ皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ朕深ク其忠烈ヲ嘉ス汝将兵益々堅忍自重以テ東洋平和ノ基礎ヲ確立シ朕カ信倚ニ対ヘンコトヲ期セヨ

これは正しく天皇が朝鮮軍および関東軍の戦争行為を承認しただけではなく、賞賛した文書である。事変勃発時の不承認的態度、あるいは不拡大を望んでいた天皇の意向が全く逆転してしまったことを示している。」http://ci.nii.ac.jp/naid/110000078470

リンク CiNii Articles CiNii 論文 - 日本異質論 : 昭和天皇と満州事変 日本異質論 : 昭和天皇と満州事変 開發 孝次郎 日本大学芸術学部紀要 34, 51-63, 2001
リンク www.geocities.co.jp 第30代・犬養毅内閣

「犬養内閣は満州国不承認の方向へ舵を取り、独走した軍部との対立色を深める。犬養は、女婿の芳沢謙吉外相に対し、中堅将校の「処士横義」を批判した上、陛下と閑院宮参謀総長の承認を得て、三十人くらいの青年将校を免官にしたい、と洩らして芳沢に制止されている。だが、その機会はついに永遠に来なかったのである。」http://www.geocities.co.jp/since7903/Syouwa-kyukenpou/30-Inukai.htm

でもここ↓1929年だったならまだ不全条約以前ではあったのかな…

リンク CiNii Articles CiNii 論文 - 昭和天皇独白録再考 (1) 昭和天皇独白録再考 (1) 開發 孝次郎 日本大学芸術学部紀要 38, 53-68, 2003-07-30

「 昭和3年6月4日、張作霖が北京から引き上げて奉天に帰る途中、列車が爆破され、張作霖は亡くなりました。これが新聞で報道されると、西園寺公爵が「どうも怪しいそ、人には言えぬが、どうも日本の陸軍あたりが元兇じゃあるまいか」(原田、第1巻、3頁)と疑っていたように、当初から陸軍の仕業であると見られていました。そこで公爵が時の首相田中に忠告したことは極めて妥当なことでした。「萬一にもいよいよ日本の軍人であることが明かになったら、断然処罰して我が軍の綱紀を維持しなければならぬ。日本の陸軍の信用は勿論、国家の面目の上からいっても、立派に処罰してこそ、たとえ一時は支那に対する感情が悪くならうとも、それが国際的に信用を維持する所以である。かくしてこそ日本の陸軍に対する過去の不信用をも遡って快復することができる。日本の陸軍も、もうかういう風に、綱紀を乱すような者があれば厳格に処罰せられるのだといふことが判れば、即ち支那や満州で陸軍が今まで不信用なことをしたが、今日は既に時勢が変わって厳格なる軍紀の下にさういふことができないようになったといふことが判れば、支那自身に対しても非常にいい感じをロングランにおいてもたせることができる。また内に対しては、田中総理が軍部出身であるために軍部を抑えることができた、一面には、政友会のやうな力強い政党があればこそ思ひきってかういふことができた、といふので、政党としても、また田中自身としても、立派に国軍の綱紀を維持せしめたといふことが非常にいい影響を与えるのではないか。ぜひ思ひきってやれ。しかももし調べた結果事実日本の軍人であるといふことが判ったら、その瞬間に処罰しろ。」(原田、第1巻、3−4頁)歴史にもしは禁句ですが、公爵の忠告がその通りに実行されていたら、おそらくその後の軍部の独走が回避でき、日米戦争の回避にもつながったのではないでしょうか。しかし田中は「「御大典でも済んだらなんとかしませう』といふ曖昧な返答をした。」〔原田、第1巻、4頁)もともと田中はシベリア出兵を先頭に立って勧めたことからも分かるように、日本の活路を大陸に求める大陸進出推進派であったのですから、この事件に対して一定の理解を持っていたことが推定されます。」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004679711

…(?)␗🍥 @raycy

…「田中の信念である「武士道」は、主君への忠誠と献身は絶対の倫理ですが、それと同時に下克上も認めていました。つまり田中の精神の中には昭和の軍閥の「天皇が反対するときには短刀を突きつけてでも、俺達の主張を認めさす」との考えが宿っていたのではないかと想像することができ」

2016-08-15 11:27:48

「 さてここで問題は、満州事変の行動は、秘密裏の行動ですが飽くまでも軍事行動ということです。田中総理は確かに陸軍の幹部でしたが、天皇はその上に君臨する大元帥であり、統帥権者であったのですから、軍政に責任を負っている田中ではなく、軍事について天皇を輔佐する参謀総長に軍法裁判を命じているべきであったでしょう。さらに外交的問題を輔弼する外務大臣に外交上の処理を命じるべきだったでしょう。」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004679711

…(?)␗🍥 @raycy

CiNii 論文 - 昭和天皇独白録再考 (2) : 満洲事変 ci.nii.ac.jp/naid/110004679… #CiNii

2016-08-15 08:37:24
…(?)␗🍥 @raycy

「結局満洲事変の最大の問題は、それが国家意思として行われたのではなく、一部の軍人、その周辺の者達が事を起こし、国家がその流れに流されてしまい、事態がどんどん進んでしまったことにあります。日本は昭和の初期から敗戦にかけて国家経営に失敗しました。故に敗戦に至るまでの経過を真摯に振…」

2016-08-15 08:57:59
リンク CiNii Articles CiNii 論文 - 政軍関係研究再考--諸概念の定義を中心に 政軍関係研究再考--諸概念の定義を中心に 小森 雄太 政治学研究論集 (30), 43-59, 2009
リンク CiNii Articles CiNii 論文 - 政軍関係研究序説--戦間期の我が国を事例として 政軍関係研究序説--戦間期の我が国を事例として 小森 雄太 政治学研究論集 (29), 201-214, 2008
リンク CiNii Articles CiNii 論文 - 政軍関係のあり方に関する一研究 : 文民統制と安全保障のあるべき均衡に注目して (秋山和宏教授古稀記念号 政治の過程、権力、構造をめぐる諸問題) 政軍関係のあり方に関する一研究 : 文民統制と安全保障のあるべき均衡に注目して (秋山和宏教授古稀記念号 政治の過程、権力、構造をめぐる諸問題) 小森 雄太 政経研究 50(3), 863-889, 2014-03