@KANAH0 俺も日本では妹と部屋シェアしてんすが、毎日残業して帰宅後無表情に連ドラ見続けてる横で仕事してると不思議な気分になるもんです。ただ煮詰まってるときに横で人が生きてると楽になるのもあるんで、どっこいどっこいっすが。
2011-02-19 23:39:39@KANAH0 シェアハウスに関しては友人の家族社会学者久保田裕之君が日米蘭比較で調査研究してますので、興味あれば見てみて下さい。たしか新書で出てたと。
2011-02-19 23:45:43人類学において「比較」は古くて新しいテーマだ。ふつう比較はAとBをCという視点から比べるとイメージされる。AとBは互いに独立していて、Cは両者を超越したところから俯瞰しうることが前提になる。
2011-02-20 00:14:07でも人類学は、諸文化を、自然と文化を、あるいは近代と未開を比較し続けてきた果てに自らの視点がそれらから超越しているという前提自体を、放棄するに至った。つまり自らの営為が、AとBをA(orB)が比べるという内在的な比較に他ならないことを、認めたということだ。
2011-02-20 00:21:26この点に現代人類学のヤバさがある。その言説は一方で難解になるが、他方で従来にない喚起力を備えうる。男と女を、日本と外国を比べる営為が実は比較の内在平面を構成する営為に他ならないこと、視点が比較に畳み込まれ、比較のうちから浮上する過程を捉える方法論として賦活されうるかもしれない。
2011-02-20 00:32:24RT @24reverse 記述の対象が周縁である限り、その成果物はピアレビューの馴れ合いにしかならない。一方、社会の中核的論題を対象にする場合、新たな現実に光を当てることにもなり、社会的な意義が大きい。ここには単なるフィールドの選択以上に、大きな意識の分岐があると思う。
2011-02-20 04:44:22同感だが俺は「社会の中核的論題」があらかじめ明示的に存在するという設定はとらない。記述を通じて「実はこれが中核的だ」と示す研究があってよいと思うし、「社会の」というより「人類の」といきたい。個人的志向以上に人類学がつちかってきた方法論の向き不向きとして。@24reverse
2011-02-20 04:39:51この点に現代人類学のヤバさがある。その言説は一方で難解になるが、他方で従来にない喚起力を備えうる。男と女を、日本と外国を比べる営為が実は比較の内在平面を構成する営為に他ならないこと、視点が比較に畳み込まれ、比較のうちから浮上する過程を捉える方法論として賦活されうるかもしれない。
2011-02-20 00:32:24@ponQ こんばんは。先日もまたいろいろなご助言をありがとうございました。あれからとぅぎゃったーを改めて読み返しながら幾つかのことを考えておりました。まず、改めてハッと気づかされたのが「日本の都市では(非)明示的ルールを守る限りひとは個人でいられる、ということに関してです。
2011-02-20 21:14:35@ponQ 既述の通り、私にとって病気、特に精神的病というものが如何にもしがたくこの人格をいつになっても個人と呼べるものにしないと感じています。私に限らず、恐らく殆どの「病人」は常に家族や病院に接続され、
2011-02-20 21:16:10@ponQ 彼らの決定力はそこにおいて常に状況(当人の体調を含む)という他者に剥奪されています。いつまたその命が危険に晒されるか測れないため、尚のこと人間の他者も介在してくる。守り守られる者たちにとっては個人という概念はそこはかとなく希薄なものです。
2011-02-20 21:16:59@ponQ それは家族間であれ同じことであり、むしろ「ゆるくなっていく共同体」に対する一種の抵抗ーー人間の意識を越えた抵抗として病があらわれてくるのが病なのではないかと考えたことがありました。アールブリュット然り、そのようなものに関心をもつ者たちは
2011-02-20 21:18:55@ponQ なんらかの姿形なき危機感に揺り動かされているのではないか…と。それから、一つ気になっていたのがTwitterがmixiと異なり異質性を指向するシステムなのではないかとのお話がありましたが、私の実感としては、
2011-02-20 21:20:32@ponQ やはりここでも同じく日本の都市ルールに基づくシステムが機能しているように感じます。つまり、一度は異質性を甘受しているようであっても、次の瞬間には(非)明示的ルールに則った振る舞いを何時の間にか人々に体得させているように思うのです。
2011-02-20 21:21:26@ponQ 例えば、すぐ目につくところで言えば、「連投」や無駄な(?)mentionは嫌がられると言って、それを自ずから控えようとする、など…。そういう意味で、人間の神経は如何に排他性を媒体とした共同体を生成するように動いているのかを改めて見ているようです。
2011-02-20 21:22:10@ponQ そういった意味で、本当に「ゆるい共同体」などといったものは現実にあるのかと、未だに疑問です。シェアハウスにせよ、諸々のコミュニティーにせよ、相手という他者が「私」にとって明確なものであるところからでしか、それらは心地良いものにはならないように思うのです。
2011-02-20 21:22:49@ponQ 対人恐怖症と診断を受けている私にとってみれば、正直、家族を含め、あらゆる人と出来る限り接触したくありません。例えば興味があることがあり、そこに集っても、その後に残るのは何日も続く起き上がれないほどの体調不良であり、生活もままならぬ毎日です。
2011-02-20 21:23:34@ponQ 行き/生き場がない恐怖に襲われることもあり、今では生死の境すらよくみえません。そこでもう一度、(無)縁とは何かと問うと、その問い自体殆ど意味をなさないようですらあります。その意味では逆説的にであれ、縁とは人を生かす何かという定義はあらかた間違いではないのだと感じます。
2011-02-20 21:25:45@ponQ それと同時に、社会の一部が無縁なのではなく(そのようなケースは不可能でしょう)、社会そのものが無縁へ向かっているというならば、それは少し矛盾があるのではないか、と。ponQさんの仰る通り、やはりシェアハウス云々以前の問題です。
2011-02-20 21:27:16@ponQ 本当に無縁であることは寧ろなにもしないでいることよりも、強い意志とエネルギーが要る。個人主義など、少なくとも日本の社会においては有効に機能してはいないのですから、無縁も同様に困難なものです。
2011-02-20 21:28:01@ponQ 寧ろ、人々は縁やつながりばかりのところから如何にうまく逃れられるかを求めて「無縁」に暫定的に行きつき、それにネガティブな方向性を含蓄させることによって、その根本的な逃避を加速させているのではないでしょうか…。
2011-02-20 21:28:42@ponQ ニートやひきこもりに関してはまた違う文脈で考えねばならないと思っているので、ここでは保留にさせていただきますが、一点、直感的に思うことがあるとすれば、彼ら(私も含むでしょう)が頑なに社会に入りたくないとする理由、入れない理由とは
2011-02-20 21:29:40@ponQ なにかをみつめることが、それこそ異質性を指向することになるのではないか、同質性とつながりが正比例するイメージを壊すことではないか、と思うのです。そしてそれは社会になんらかの異質性をみたのであろうニートやひきこもりと見なされている側からこそ
2011-02-20 21:30:41@KANAH0 >人間の神経は如何に排他性を媒体とした共同体を生成するように動いているのかを改めて見ているようです。 こういうのって、いろんな場面で見ますよね。場合が違いますが、煽り・ディスリ・罵声などこう言うことに限って共同体的であるというか…。
2011-02-20 21:26:18