「真田信之」気づきまとめ

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日光81 @nikko81_fsi

平山先生の『真田信之』今真田丸やってるとこまで読み進めたよん。信幸の『信』は改めて信玄、勝頼からではなく、新屋形である信勝からであり、重臣の受領名刷新と連動してること、唐入の信幸隊が赤備えだったこと、沼田城天守考察が響いたあたり。

2016-09-26 23:21:28
日光81 @nikko81_fsi

上田も含めて伏見普請からの技術伝播。五層であるのは決め手に欠ける印象だけど、それより高虎の今治城から層塔型の歴史を遡る可能性があるのは興味深い。もしそうなら、層塔型の成立背景から考え直さないといけないかもしれない。沼田城が発掘されて成果が出るのが俄然楽しみ(真田より城目線で)

2016-09-26 23:25:55
日光81 @nikko81_fsi

唐入に備えた信幸隊が赤備えの件は、大阪城天守閣にある信幸の胴が赤(現在はくすんだ赤黒い色)の昇梯子具足を思い出した。信幸が着用したあたりの詳しい経緯わからんもんかなー

2016-09-26 23:30:16
日光81 @nikko81_fsi

さて、平山先生の「真田信之」の後半。①上田をも領することになった信之に立ちはだかる度重なる災害。侵略による領土拡張が否定された幕藩体制で、逃散する民を必死に手なずけ、時には身銭を切って戻らせそれでいて依怙贔屓は絶対にしない、させないという規律の通そうとする意思の強さ・・・

2016-09-29 00:38:23
日光81 @nikko81_fsi

決して民想いというだけではなくって、藩政を立て直すには、耕作する農民との持続可能な関係がという基本認識を信之が持っている気がするのですね。わたしはここに名君の風格を感じるだけでなく、信玄公の面影を感じます。甲陽軍鑑の末書上巻に信玄公の農民に対する認識が示されていて・・・

2016-09-29 00:39:27
日光81 @nikko81_fsi

黒田日出男先生の「甲陽軍鑑の史料論」によりますと、百姓らが田地を耕し年貢を納めてくれるからこそ、われわれ侍衆は生きていられるわけで、耕作放棄したら侍は生きてはいけない。百姓が欲を持って米を隠したり、嘘をついてもそういう不甲斐ない者と思って、慈悲の心を持って少しの咎は赦し…

2016-09-29 00:40:59
日光81 @nikko81_fsi

百姓の生活が成り立つようにし田畑を荒れないようにしていくことが肝要であるという、信玄公の農民観が示されているようなのです。これ、凶作や災害があっても、何とか農民を繋ぎとめようと必死に配慮する信之の姿と重なってくるところがわたしには感じられました。

2016-09-29 00:41:41
日光81 @nikko81_fsi

にしても、それまで昌幸の許で生き残るために戦いに明け暮れ、豊臣時代から沼田を領する大名であったとはいえ、関ヶ原後に上田も含めて手渡されたところで、災害続きで普通乗り切れないですよねよね?しかも昌幸と信繁への仕送りも多大。この内政力はどこで鍛えられたのだろう・・・

2016-09-29 00:42:11
日光81 @nikko81_fsi

と考えると、昌幸や信繁とは違うある種の武田的な要素を見出してしまいます。統治システムの引継ぎ・発展もあるでしょうが、信之が表立って武田を表明しなくても、武田時代の統治の基本みたいなものが(昌幸経由なのかはわかりませんが)信之に受け継がれている気がするんですよね。

2016-09-29 00:43:02
日光81 @nikko81_fsi

2つ目の気になったのは、真田家嫡流問題。大坂の陣は、真田与右衛門が真田家から出奔して越前松平に仕えていたのは知ってたけど、大坂の陣に際して信繁に加担し、その場を生き抜いて越前家に召抱えられたとは。

2016-09-29 00:44:28
日光81 @nikko81_fsi

確かその後胤(直接ではなく昌輝系が信綱系に養子入り)が源太左衛門を称し、我こそは真田の嫡流と表明するかのような通称を名乗っているけど、なぜ信繁に加担したのか・・・やはり、昌幸系が真田宗家を簒奪した格好になっているのがわだかまり?

2016-09-29 00:44:57
日光81 @nikko81_fsi

とすると、最後の最後まで信之が嫡流信綱の血を引く清音院殿から生まれた信吉系(信直)に継がせようとした意味が類推できるような。しかし、もはやそういえない状況に追い込まれた時代。 信之も断腸の思いだっただろうし、裏切られた格好の信直も気の毒。

2016-09-29 00:45:43
日光81 @nikko81_fsi

そして松代真田を凌駕すべく、無理をした結果が改易・・・・悪政と言い切ればその通りだけど、その悔しさと焦りは判る気はする。大坂冬の陣の和睦後、信繁が信吉とは言葉を交わしつつも、信政には一礼するだけというこの差は何なんだろうな。

2016-09-29 00:46:53
日光81 @nikko81_fsi

想像するしかないのだろうけど、信之だけでなく信繁もまた、真田の嫡流は信吉という認識を持っていたのかもしれないですね。信政が逆恨みしてあんな遺言を出さなかったら・・・信政は信政で父・叔父世代が信吉嫡流というなかで、チャンスあればという気持ちが強かったのか。

2016-09-29 00:48:33
日光81 @nikko81_fsi

あとひとつ、揉め事仲裁。いっても信之ではなく出浦昌相の話。揉め事を仲裁する昌相が、当事者二人にお前たちの親父たちは、武田時代に典厩(信豊)衆としてともに戦った仲間じゃないかと諭すところ。これが説得材料になるほど武田家は輝かしくも遠い記憶として確実に真田家に息づいていたんだな…

2016-09-29 00:50:30
日光81 @nikko81_fsi

ラスト、信之が亡くなった後の慕われ方は、ここまで読んできたらもう、さもありなんという感じ。名君でしょう。わたしにとっては実に魅力的な人物にこれまで以上に見えてきました。松代真田家と武田という観点で非常に考えるところ大でありました。

2016-09-29 00:55:45