@amnkLibya さんによるリビア情報

現地訪問・調査を重ね、リビアの部族主義について考察してきた @amnkLibya さんによるリビアの解説。本人にまとめるの嫌がられたら消します。 スタンスと注意事項は本人のTweetをよく読んで下さいね。一応、緑字にしておきました。また、話題が変わる度に、その話題を青字にしておきました。 リストへの追加は不定期なのでリアルタイムに情報を得たい人は素直に @amnkLibya をフォローしましょう!誰でも編集可にしてあるので、勝手に追加してくださって結構です。ただ、混乱しないようにほかの人の発言は入れていません。また、本人が考えてTweetしているはずなので情報の取捨選択はせず、重複以外は全Tweetリストに追加しています。
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@amnkLibya

参考:中東・エネルギー・フォーラム「国内東部地方の反政府デモの抑制に全力を傾注していると思われるリビアのカダフィ政権」 http://bit.ly/fZnokD

2011-02-23 03:46:30
@amnkLibya

カダフィの演説から一夜が明けました。昨夜に引き続き、ささやかながら変動するリビアに情勢を捉える上で有意義と思われる情報を提供したいと思います。(基本的に、速報や緊急情報は掲載しません

2011-02-24 01:53:01
@amnkLibya

繰り返しお断りしておきますが、他の多くのリビア関連のTweetと同様、独断と偏見、不確定な情報にもとづいていることがあります。また、恐らく多くの人にとって「親カダフィ」「親リビア政府」のように思える内容も多いと思います。

2011-02-24 01:53:30
@amnkLibya

また昨夜からの繰り返しになりますが、地域主義と部族主義にもとづいたベンガジでの局地的な反政府運動が、なぜ首都を含めたリビア全域に広がり、政府高官や外交官の辞職・離反などに結び付いたのか?これは時間をかけて分析する必要がありますが、現時点では以下のように捉えています。

2011-02-24 01:54:45
@amnkLibya

まず、反政府運動に対する武力を伴う鎮圧がきわめて苛烈なものであり、多数の死傷者が出たことに、国民がアレルギー反応を示したという点。政府の対応には当然ながらカダフィの判断が伴っており、ベンガジでの蜂起そのものとは異なる部分でカダフィ個人への批判が高まったと思われます。

2011-02-24 01:55:10
@amnkLibya

恐らく今後もリビア情勢は大きく変動するでしょうし、一刻も早く現地の情勢が安定することを切望してやみませんが、「独裁政権vs無辜の民衆」「民主化」「狂人カダフィ」という言葉に踊らされていると、表層的な捉え方しかできないということは確かです。

2011-02-24 01:55:27
@amnkLibya

参考:Situation in Libya as of 23rd Feb 2011, showing areas of regime control vs. liberated areas. @iyad_elbaghdadi http://yfrog.com/h3un88j

2011-02-24 02:00:29
@amnkLibya

先程紹介した23日時点でのリビアの勢力図に、リビアの地域区分を合わせてみました。これを切り口に、情勢の概説をしてみたいと思います。 http://yfrog.com/h6vg14j

2011-02-24 02:06:05
@amnkLibya

まず、東部キレナイカ。 リビア王国の首都であったリビア第2の都市ベンガジを中心とした、反政府勢力の牙城です。キレナイカもベンガジも、恐らく1週間前までは日本で知っている人など極めてわずかであったと思いますが、あまりにも不幸な形で有名になってしまいました。

2011-02-24 02:11:50
@amnkLibya

イタリアのリビア侵攻、植民支配に対する抵抗運動のリーダーであり、 リビア独立の父として尊敬されているオマル・ムフタールも、ベンガジの出身です。このことは、当然ながらキレナイカ地域の人々のプライドの源泉となっています。 http://bit.ly/fRorJO

2011-02-24 02:31:51
@amnkLibya

反カダフィのポスターを掲げる人々。真ん中の人が掲げているメガネのおじいちゃんは、かつての国王であるイドリース・サヌーシー。 http://bit.ly/h4k4ls

2011-02-24 02:45:37
@amnkLibya

次に、西部トリポリタニア。トリポリタニアとはギリシャ語で「3つの都市(ポリス)」を意味し、紀元前から地中海沿岸部には都市が建設されていました。現在の首都トリポリの地下には、フェニキア、古代ギリシャ、ローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国などの遺跡が埋まっているといわれます。

2011-02-24 02:58:39
@amnkLibya

首都トリポリには当然ながら政治・経済機能が集中しています。 経済の停滞しているUAEのドバイから建設資材や労働者を大量に受け入れており、中東・北アフリカにおける次なる発展の舞台として、未開発の豊富なエネルギー資源、広大な国土のインフラ需要が世界中から急激に注目を浴びていました。

2011-02-24 03:13:50
@amnkLibya

余談ですが、2009年に放送されたNHKスペシャルのドキュメンタリー企画『沸騰都市』の特別編「沸騰都市のそれから」では、ドバイから建材や労働者がリビアへ渡っていく様子が描かれていました。 http://bit.ly/6LG3wB

2011-02-24 03:17:35
@amnkLibya

トリポリとベンガジに挟まれてシルテという町があります。ここはカダフィの出身部族カッザーファ族の拠点であり、左側の勢力図を見ても、この街がカダフィの支配下にあるとされています。小さな町で人口も少ないにもかかわらず、カダフィの故郷として、大きな会議施設などが設置されています。

2011-02-24 03:24:56
@amnkLibya

2010年の秋にも、シルテでアラブ連盟とアラブ・アフリカサミットが開催されています。 http://bit.ly/bXOMNY http://bit.ly/erD5CL

2011-02-24 03:32:11
@amnkLibya

さらに、シルテはUNESCOとアラブ連盟によって、2011年の「アラブ文化都市」に定められています(これまでは全てアラブ諸国の首都)。 これはシルテがカダフィの故郷であること、近年のリビアの急速な発展が影響していることは明らかです。 http://bit.ly/c9y5an

2011-02-24 03:39:49
@amnkLibya

ただし、シルテがトリポリとベンガジという2つの大都市に挟まれている点に注意すべきです。今後トリポリと周辺の都市がカダフィと現政権の支配下を離れた場合、シルテ(とそこを拠点とするカダフィの一族)は東西から挟み撃ちに遭ってしまうわけです。しかも北は地中海で、南はサハラ砂漠です。

2011-02-24 03:45:21
@amnkLibya

これは今に始まったことではなく、カダフィが革命後に政治基盤を固めるまで、この地理的な不安定性は常に付きまとっていました。ベンガジは革命政権に対して敵対意識をむき出しにし、トリポリは弱小部族出身のカダフィに対して非協力的…そこでカダフィが活路を見出したのが、南部フェザーンでした。

2011-02-24 03:49:28
@amnkLibya

で、南部フェザーン。リビア一国だけを見ていては分かりづらいですが、フェザーン地域はサハラ砂漠の北端に位置し、各地のオアシスは、歴史的にサハラ砂漠の南北の文化圏、アラブ世界、さらに地中海を結ぶ交通・貿易の要衝としての役目を担っていました。

2011-02-24 04:19:43
@amnkLibya

この地域は地中海沿岸部とは地理的に隔たっていたこともあり、古来よりフェニキアやローマ帝国といった地中海文明勢力に支配されることなく、砂漠の都市・遊牧民としての文化を維持してきました。 昨日概説したトゥアレグ族もその一つです。

2011-02-24 04:25:26
@amnkLibya

弱小部族の出身であり、トリポリとベンガジという二大地域勢力に、東西から挟まれているカダフィは、南部に位置するフェザーン地域と手を結ぶことで政治基盤の確立をはかってきたわけです。

2011-02-24 04:26:53
@amnkLibya

では、地中海沿岸の小都市シルテの出身であるカダフィが、どのようにしてフェザーン地域(の部族勢力)に接近することになったのか。それは少年時代のカダフィの家族が、シルテから南部の都市セブハに移住したことをきっかけとしています。

2011-02-24 04:31:29
@amnkLibya

そもそもカダフィ親子がシルテから800kmほども離れたセブハへ移住した経緯には、両都市の間に築かれていた交易の歴史が関係しています。サハラ砂漠北部のオアシスであるセブハからはナツメヤシやアフリカの産品を、遊牧民の拠点となっていたシルテからは家畜をそれぞれ売買していたわけです。

2011-02-24 04:33:31
@amnkLibya

シルテの遊牧民であったカダフィの父親も仕事でセブハを訪れる機会は多かったこと考えられます。当時のカッザーファ族は貧しく、社会的地位も低かったのですが、教育の価値というものを心得ており、カダフィの両親は自身の食を切り詰めて息子をセブハの学校へ通わせたといわれています。

2011-02-24 04:34:47
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