@sanojun21先生の「学問としての「ユーモア」「笑い」に関する一考察」

笑い ユーモア 学問 大学教育 真理 批評 批判
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sj @sanojun53
「笑い学」という分野が、諷刺の面で語られることは世界的には珍しいことではない。この列島の文化では沖繩が突出して諷刺で顕著なのは、それだけ社会的な矛盾による不幸が蔓延しているからだろう。その事は、放送作家の町田孝三郎さんが、大分の吉四六噺と、江差の繁次郎噺を比較して語っておられた。
sj @sanojun53
ネパールでhumor学の中心となっている学会は、「ネパール諷刺と笑い学会」。会長のラム・パンディ教授は、国立トリブバン大学で研究をしつつ、壁諷刺マンガで汚職と無責任政治を糾弾し、人道上の貢献を評価され、アムネスティの特別招待研究員として1996年に豪州NSW大学に来訪した。
sj @sanojun53
ニューサウスウェールズ大学でお会いしたパンディ教授は、実に気さくな方で、学会開催期間中に、一緒に食事したり、散歩しながら語り合ったりした。その中で、教授の怒りの深さと、それを笑いに昇華させる人間性に感銘を受けた。
sj @sanojun53
笑いを道具にして、あらゆるものの本質に迫り、一緒に笑うことで、その認識を共有するというのは、教育にも通じる。権威や権力に対しては、笑いは有効な武器となる。「権力者は笑われるのを最も嫌う」というのは古今東西、同じだ。
sj @sanojun53
怒りをそのまま表出するのは簡単だが、それを諷刺・笑いに昇華させるには、相手をも笑いに巻き込み正気に戻させるような、忍耐力・深い人間の本質への洞察、更には、人間の可能性への信頼が必要だということを、パンディ教授から学んだ。人間性というのは、そういうものではないか。
sj @sanojun53
いわば、人間の変革の可能性を信じる心、強い人間への愛着、あるいは、自分の可能性も相手の可能性も同等に信じたいという強い欲求、それが人間性なのではないか。笑いというのは、そうした人間性に根ざしたものだと思う。
sj @sanojun53
笑いが100%良いとは言わない。笑いが攻撃にのみ使われているイジメの現場。、何が問題かというと、自分よりも弱い立場の人間を笑いの対象にする点だ。なにを笑いの対象にするか。そこに笑う側の人間性が現れる。笑っていれば良いのではない。笑う対象を峻別すること。これが課題だ。
sj @sanojun53
笑う対象を峻別するためには、深い教養に裏付けられた洞察力が必要だ。その洞察力、端的に言えば、何が悪いのかを鋭く見抜く目を育てるのが教育であり、教育によって培われた人格があってこそ、笑うという行為が人間性に結び付く。
sj @sanojun53
そう考えれば、人間性は共感力・共鳴力といった情動の分野に属し、人格は教育による錬磨が可能な知性に根ざすと言えないだろうか。むろん、このふたつは不可分のものであり、二項対立するものではなく、共通する部分が非常に大きい。
sj @sanojun53
人間性と人格に共通する部分、それを一言で言うなら、生きようとする力、すなわち生命力とは言えまいか。それはエゴイスティックに、動物的に生きることではなく、共に生きようとする力、共生の衝動だと考える。
sj @sanojun53
共生の「衝動」と言う言葉を使うのは、その情動が知識によってもたらされるものではなく、どうしようもないくらいに、切実な心の動きだとおもうからだ。共に生きたい、共に成長したい、共に変わりたい、共に幸福になりたいという気持ちは、知識によってもたらされるものではない。
sj @sanojun53
共生の「衝動」と言う言葉を使うのは、その情動が知識によってもたらされるものではなく、どうしようもないくらいに、切実な心の動きだとおもうからだ。共に生きたい、共に成長したい、共に変わりたい、共に幸福になりたいという気持ちは、知識によってもたらされるものではない。
sj @sanojun53
旺盛な生命力を持っているなら、すなわち、自ら生きようとするなら、その生きるということが他者との関わり無しにできるものではないことに、すぐに気づくだろう。そして、誰かが痛みを感じれば、同時に、自分自身も痛みを感じるということも。
sj @sanojun53
同様に、大事に思われれば、相手をも大事にしたいと思う。こうした他者との共感力・共鳴力の不思議さを感じれば感じるほど、共に生きたいという衝動・欲求がより強まる。陶冶された人格にも、豊かな人間性にも共通する部分は、これだろうと思う。ユーモアというのは、その部分に根ざしている。
sj @sanojun53
残念ながら、昨今の教育では、この人格の陶冶に関する訓練、特に、悪を見極める訓練がなされていない。更に悪いことに、お互いを大事に思う豊かな人間性を阻害するものとして、競争原理が学校での人間関係にまで導入されてしまっている。これでは、イジメが発生するのも当然だ。
sj @sanojun53
わかります。そうした傷が積み重なって、暴力衝動になる。現今の社会の病理は、そうした小さな傷の積み重ねだと思います。決して大構造の社会悪だと政治だとか、そういった事だけが問題じゃないですよね。 RT @nobu_yancha: 子供の頃よく笑われてました。かなり傷つきましたね
sj @sanojun53
知識を得ることや、技術を習得することは、それが何のために必要か、どういう危険性をはらんでいるかという洞察、つまり人格の力の裏付けがなければ危険ですらあり、その知識や技術を自他ともに幸福になっていくために使いたいという情動、すなわち人間性に根ざしたものでなければ虚しいだけである。
sj @sanojun53
学校でいくら学んでも虚しい、という学ぶ目的の喪失感。学校の勉強など、なんの役にも立たない、という社会に蔓延する学ぶことへの侮蔑。そのいずれもが、人格と人間性を切り捨て、知識・技術偏重になってしまった今の教育が、自ら招いた当然の結果であろう。
sj @sanojun53
私が三つの大学で行ってきた授業というのは、そうした知識偏重の大学教育に対する挑戦だったと自負しているが、まだこれは、ささやかな抵抗でしかない。「笑い学」というものを確立する必要性は、教育に「人格の陶冶」と「人間性へのまなざし」を回復するためにこそある。未だ道半ばなのは承知だ。
sj @sanojun53
@nobu_yancha そこから今に至るまで、数々のドラマがあったと思います。それこそが財産ですね。痛みを経験した人は、同じ痛みを抱える人に共感できますから。その共感力こそ、人間性なんだと思います。痛みを経験した分だけ、人間性はきっと豊かになっていますよ。誇るべきことです。
sj @sanojun53
マーク・トウェインという作家は、日本では単なる児童文学作家のように扱われているが、初期の『地中海遊覧記』での教会権威主義批判から、晩年の「闇に座す者へ」で米国内に充満した思考停止の愛国主義に対する批判に至るまで、徹底して「人間性」に根ざしたユーモアを展開した戦う作家だと私は見る。
sj @sanojun53
そのトウェインの戦う作家としての姿勢が、何に由来するのか。私の研究は、ずっとここに焦点を絞っている。今回のボストンでの口頭発表も、それに関する一連の考察に属するものだ。もっとも、発表するにはレフェリーの審査を通過しなければならないが。
sj @sanojun53
国際ユーモア学会に申し込んだ発表では、一回だけ、「本大学で読まれるに相応しくない」という理由で落とされたことがある。スペインの大学で。徹底した旧教批判を展開した時期のトウェインを扱ったから、アブストラクトの内容がカソリックを標榜する大学としては宗教的に危険だと判断されたのだろう。
sj @sanojun53
2003年のシカゴ大会では、口頭発表の申込み自体は審査を通過したが、香港のSARS騒ぎで行けなかった。アメリカに行く場合、SARSに感染していないことが証明されるまで、帰国後二週間、自宅待機しなければならないと大学から言われたからだ。非常勤講師にとっては馘首に等しい(涙)
sj @sanojun53
2003年の国際ユーモア学会で、日本人で行ったのは村松増美先生だけだった。私が日本笑い学会関東支部事務局長をつとめていた時の支部長、村松先生は同時通訳の神様と言われた人で、その行動力も神様に等しく、SARS騒ぎを余所にシカゴに行き、帰って来て「サノ君、意気地がないね」とw
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