フォーラム「コンタクト・ポイント:東京ビエンナーレ1970」 峯村敏明氏・小清水漸氏・渡部葉子氏[実況]
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峯村「1969年秋頃に白羽の矢を立てた。その時にいまだかつてない展覧会にしようという蛮勇に突き動かされた。彼は37歳でまだ若く、私は32歳であり、新聞社的ならありえないことをしてしまったが、新聞社もしっかりしてたせいか暖かく見守れた
2016-12-12 18:28:36峯村「中原が初めから全て見通してやってたのかといえばそうではない。批評家はものを考える人間で一日一日の体験が新しいネタになるわけで、東京ビエンナーレやったことで中原にとって曖昧なことが明らかになったのではないか。
2016-12-12 18:29:31峯村「クリスト展示の部屋だが、非常に大きい。しかし元々この計画ではなかった。美術館近くに広い上野公園があるが、その歩道部分を布で覆いその上を歩き変化を楽しむという企画であった。
2016-12-12 18:30:45峯村「クリストの展示はラッピング、四角を遮る行為で、相当乗り気だったのだが、私と非常に多くの連絡もしていた。 彼は自分で材料も揃える人なので、シドニーの海岸岩肌を覆うことをしてて、美術館を包むことから自然を包むことに移行しててそれをとあるパトロンに力添えしてもらっており、
2016-12-12 18:32:32峯村「クリストは丁寧にプランを立てていた。現場を見て、ドローイングをして、そこに布を張り込みながら独立した作品としつつ、それを売却し、プロジェクトの資金を賄っていた。
2016-12-12 18:34:07峯村「クリストは東京ビエンナーレでも同じように丁寧に準備したのだが、布が完全な不燃性が担保できないと台東区所轄消防署から結局駄目といわれた。そこで、すぐ展示を切り替え記録に残るような展示となった。
2016-12-12 18:35:42峯村「他は箱状なので、二人でも一人でもやりやすかったが、この大きな彫刻室、どうすれば良いのか、いくら百戦錬磨の作家とはいえ難しいのでは、だからクリストがやってほしいと願望はあったが、結局かれが展示することになり、急いで他の空間も決まっていった
2016-12-12 18:36:44峯村「中原は筆が遅い人で、それも好意的に考えており、十分に調べ上げた上その上澄みのような思考を書き始めたが、晩年は慎重になりすぎ文章が面白くなくなったように思う。
2016-12-12 18:39:01峯村「東京ビエンナーレのカタログについてコミッショナーの文章が全く出てこないし、私は怒っていたが、来るたびに飲みに行こうだし。
2016-12-12 18:41:01峯村「ついにある時電話があり、これは書けないだろうときた。フラナガンという作家だって決まらないんだから俺だって決まらない、と。臨場主義がここにあると批評的な態度、、、とも言える。
2016-12-12 18:44:42峯村「アンドレはニュートラルな空間を構成したが、宿の道すがら藝大の脇見ると錆びた曲がった鉄の棒を見つけ、それ炉利用した。 対価用レンガ、スズやチタンを使い作品を作くるタイプだが、偶然をうまく活かしたと思う
2016-12-12 18:44:45[修正]
炉利用した→利用した
峯村「ハーケは現地に行かないと作品作れないと言ってたが、循環をテーマにしており場所を見るのが必要だが、 アンドレは一定期間生活をする中で出会ったものだろう
2016-12-12 18:45:21峯村「ビュランが縦縞を貼ることは決まってたので、場所性が問題で、素材までは局所性はない。そこでアンドレが際立ってユニークだろう。
2016-12-12 18:46:30峯村「中原の批評家としての働きもあらかじめ決まってたことはそれほどないだろう。核は刹那的ではない。しかしその時でしか出来ないということはあり、自分が想像してた以上のことを発見したといえる
2016-12-12 18:47:25峯村「それが展覧会のクリエイティビティになったのだろう。これはロンドンで話してない。今の語りは思いつきで話す本音の話しといえるだろう
2016-12-12 18:48:04峯村「中原は還元主義者であり、東京ビエンナーレの原動力はまさにその還元主義という見方だ。 1960年代いっぱいまであらゆる知的分野影響のあったものだ。 複雑なものを単純な一つの原理にする、それは1960年代まで重要なことであった。
2016-12-12 18:50:27峯村「1960年代の日本は沢山の知的な「鬼」が跋扈していた。芸術の約束事を捨て去った時期だ。50年代も同様といえそうだが、もっと単純だ。 二項対立状態で、モダニズムが実験工房、一方が基地闘争や占領下日本の矛盾を絵画で表す左派的社会的リアリズムだ
2016-12-12 18:51:46峯村「左派社会的リアリズムの代表的批評家は針生一郎だ。60年代の終わりにはアンフォルメル絵画が出てくることで、それを受け止める具体グループが出現、分かりやすい左右分離は吹き飛び、混沌となる。
2016-12-12 18:52:30峯村「その混沌は歴史を遡らせることもできないほどだ。物質や日常的事物、人間の肉体性を巻き込み、美術という枠組みでは語れないことを相手にするのが、ネオ・ダダや反芸術となる。これが60年代いっぱいだろう
2016-12-12 18:53:25峯村「それを最後に、それらを忘れたかのように大阪万博が出て来る。針生一郎は政治メッセージ強いことから物質からオブジェ・肉体の反乱へ入ると関心も映す東野芳明や石子順造・・・ 理論化しにくいまとめにくい動向を芸術の問題として把握すること、それに苦労したのだろう
2016-12-12 18:54:54