秋田実季の一断面 ~または独断と偏見の紹介ツイごっちゃまとめ~(ちょっとだけ刀剣乱舞)
- kotosakikotoko
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何度も言うけど秋田実季さん書も絵画も出来る文化人であり、偽の講和で油断させた所を襲ったり対立した敵の村々を遠慮なく燃きはらったり、謀を尽くす外道だし、ついでに息子と骨肉の争いして息子の寵臣殺したり無茶苦茶な政策して国を混乱させたりする、魅力あふれる大名さんだよ!
2016-01-29 23:11:24調べれば調べるほど『あ、こいつヤバい奴だ』になるからね秋田実季さん。みんな能代市史を読んで『配流されて当然だわこのおにちく』と思えばいいと思う。
2017-01-11 20:23:50心を病んだエピソードも嫌いじゃないけど、偽りの停戦をして時間稼ぎして準備整えた上で相手を叩き潰した、そんなヤンチャな秋田実季さんはもっと推したい。
2017-01-11 20:27:39秋田実季さんのご所業 ・偽りの講和をして時間稼いでしっかり湊安東氏を潰し ・従わない浅利さんの領地半郡分を焼き討ち、撫で切り ・『御身躰成申さず』と家中の物成を取り上げ乱費 ・息子の寵臣を折檻の為に呼びだそうとして勘づかれ家臣が斬り合い ・強制隠居の後も家政に介入(そして配流へ)
2017-01-11 21:43:57慶長20年5月7日、天王寺合戦の際、秋田勢は毛利勝永と戦いになり、相手方四十三騎を討ち取った。中でも秋田実季嫡男・秋田俊季は馬上一騎を討ち取って高名を挙げた。 だが実季は俊季を妬み「その方は惣領なれば、自身の高名などなくても構わない。その首は季嗣に渡し高名にさせなさい」と命じた。
2015-05-06 19:02:09その言葉に俊季は「武士の高名は惣領・庶子に違いはありません」と拒否。実季は「父の命に背く不孝者め!」と激怒するが、実季実弟の英季が間に入ってなだめ、俊季の高名も褒める事でこの場は収まった。だが実季は俊季を悪しく思い、更には英季も疎むようになったのは、この事が根元であるという。
2015-05-06 19:03:40以後、実季の宍戸領での統治は乱れていたようで、実季は次男忠季を寵愛するようになり俊季と不和になった。『御身体成申さず候』として家中の物成を取り上げたり、それでいながら芸人に2千俵を宛がうなど浪費も多く、また煙草を嫌いだとしてキセルを没収したり、
2015-05-06 19:04:55臭いものは嫌いだとしてにんにくの栽培を禁じるなど、様々な法度を出して家中や在々は困窮したという。ちなみに俊季はタバコ大好きエピソードが残ってたり。
2015-05-06 19:05:20そんな状況に実季弟の英季は度々諫言し、殿中の家臣に肩衣(礼服)として夜着に着させていることを取り上げて咎めるのだが、かえって不興を買い、逼塞となって切腹も取りざたされる事態となった。ほどなく英季は暇をもらい、浪人となって江戸に去っていった。
2015-05-06 19:06:51この後、家臣が公儀へ訴え出て実季は隠居したが、実季は次男季嗣改め忠季を家督にしようと企み、さらに俊季の家臣である湊庄兵衛に折檻しようと二人の家臣に呼び出させたが、それを密かに知らされた庄兵衛が二人と切り結び、最後には自害。怒った実季は庄兵衛の妻と子二人を殺してしまう。
2015-05-06 19:08:59以上、羽賀家文書安倍家由緒書より。小浜酒井家に仕えた秋田実季の弟英季、その次男である山川武左衛門が書いた由緒書。ただ、この後半の隠居のあたりの時系列が微妙に合わなかったりする。実季隠居の時点で忠季は亡くなっているし。
2015-05-06 19:11:12実季が朝熊へ蟄居を命ぜられたのは、隠居の後も藩政に干渉する実季と、それを排そうとする俊季の藩政における対立が家臣団の対立も絡まり極まった結果、と考えたほうがいい模様。その結果として、湊庄兵衛からの一連の事件があった可能性もあるかもしれない。
2015-05-06 19:13:15深夜だしここがすごいぞ秋田実季(文芸編)とか呟いてみる。 まず最初に、実季の父である安東愛季が高い文化的素養を持った人物で、彼は『鷺のいる池」や直筆とされる親子馬の絵馬、また幾つかの和歌詠草などを残しており、六芸(礼楽射御書数)に秀でた人物であると讃辞を受けている。
2015-09-23 02:12:04そして実季だが、実季は自筆の三十六歌仙や釈迦尊像の肖像・和歌の直筆を残し、また書道においては尊朝法親王(ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A…)の直接の手ほどきを受け、また近衛前久・信尹親子とも交流し、彼らから影響を受けた。
2015-09-23 02:12:49後世の『働乱評』では、『其の頃、両国に並びなき能筆とあれば実季のことなり、愛季能筆の沙汰は聞くに及ばず』『連歌・茶の湯にもすぐれ、優美な人と云い伝えられている』と評価されている。積極的に手習い書や古典を集め、相応の努力をしていたようである。
2015-09-23 02:14:04秋田実季の木像と対になるように安東愛季(木像銘は安倍愛季)の木像が存在している事ももっと知られるべき。 www1.city.obama.fukui.jp/obm/rekisi/sek…
2015-12-03 23:46:17『尚々木像之事、先愛季之御影を仕候、この数年念願ニ御座候所ニ、安房守合力御座候ニ付て、わつか之入用いて、如此候。然所ニ近国之衆参詣仕、おひたゝしく聞へ候へハ、物の志ゆんたく(潤沢)に☐候』
2016-09-29 21:35:19慶長5年の奥羽争乱で、由利をかっさらおうとしたり小野寺ぶん殴ったりと生き生きとしている秋田実季さんの腰で、感化されてわくわくしたり怯えたりしてる秋田藤四郎さんの話はもうあるのでしょうか?
2015-06-01 22:05:24今ふと気づいたんだけど、秋田藤四郎少年が秋田実季の元に来て最初に体験した可能性のある戦いって、浅利騒動だったりするんじゃないか……。比内を撫で切りと焼き働きで滅茶苦茶にした、秋田実季の残虐な面をもっとも象徴するあの戦争。
2015-08-16 23:00:18春麗らかな三春城の片隅で、キセルで煙草をぷかぷかと吹かす秋田俊季、その横にちょこんと座って、父秋田実季の思い出を訥々と呟く俊季の話をじっと聞く秋田藤四郎の話なら見てみたい。
2015-08-28 16:45:57