なぜ内藤(湖南)は応仁の乱に他の戦乱とは異なる特別の意義を見いだしたのか。それは、応仁の乱が旧体制を徹底的に破壊したからこそ新時代が切り開かれた、と考えたからである。 「応仁の乱」呉座勇一
2017-02-12 17:10:12内藤は「足利時代は全く天才のいなかった時代であったから、応仁以後百年間というものは争乱の収まる時期がなく、戦乱が相続いて居った」という。しかし内藤は、それまでの史家と異なり、英雄の不在と戦乱の頻発を嘆かない。 「応仁の乱」 呉座勇一
2017-02-12 17:14:49むしろ、それゆえにこそ「最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する」下剋上が盛んになったのだと説く。 「応仁の乱」 呉座勇一
2017-02-12 17:16:57足利義教は「外聞」を極度に重視する性格だった。このため、当初は複雑な大和情勢に下手に首を突っ込んで失敗することを恐れ、大和放任論に傾いた。だが、いったん関与し始めると、自身の命令に逆らう者が許せないため、一転して強硬策を主張するようになる。 「応仁の乱」呉座勇一
2017-02-12 17:26:47義教は、"口先介入"によって状況をコントロールすべきという周囲の反対を押し切って武力介入に踏み切ろうとする。悲劇の幕は上がりつつあった。 「応仁の乱」呉座勇一
2017-02-12 17:29:32この一揆締結は、山名・細川間の和睦を認めず戦闘を継続するということを意味するので、京都は騒然となった。しかしのちに誤報と分かり、京中の騒ぎは収まった。それどころか、そもそも和睦の成立が誤報と判明した。 「応仁の乱」 呉座勇一
2017-02-19 11:33:04応仁の乱で大和がほとんど戦場にならなかったのは、興福寺の権威が健在だったことと無関係ではない。筒井ら衆徒・国民は、小競り合いをすることはあっても、決して他国の軍勢を大和国に引き入れようとはしなかった。 「応仁の乱」 呉座勇一
2017-02-19 20:15:19その理由の一端は、興福寺の法会や春日祭を無事に開催することにあったと考えられる。大げさに言えば、興福寺の存在が大和国を平和に保ったのである。 「応仁の乱」 呉座勇一
2017-02-19 20:17:23畠山義就の魅力は、軍事的才幹もさることながら、守護家に生まれ御曹司でありながら、権威を物ともせず、実力主義を貫く点にある。 (中略) 「最初の戦国大名」というと、朝倉孝景や北条早雲の名前が挙がるが、畠山義就も戦国大名的な存在といえよう。 「応仁の乱」 呉座勇一
2017-02-19 23:40:17「この戦いって11年続くんですよね…?」と愚痴が漏れ始め、厭戦気分まで追体験することに…。いえ、優秀な番組スタッフと、わからないことを悉く無茶振りされても淡々と解説して下さる呉座さんのおかげで、応仁の乱の一部始終が理解できる番組になったと思います。放送は7月27日(木)20時〜。
2017-06-30 20:40:03