劉表:北を張繍・劉備、東を黄祖に任せ南に向かう三国志序盤の群雄

清流派儒者として名を馳せた劉表は宗賊を皆殺しにして荊州を治め、北を張繍や劉備、東を黄祖に守らせてひたすら南に勢力を伸ばしていきます。荊州南部の四太守にも触れます。
11
前へ 1 ・・ 3 4
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図&推し本三国志シリーズ @osacchi_basstrb

207年、208年と江夏は孫権に攻められますが、劉表が黄祖に援軍を送った記述はありません。207年には甘寧が凌操を討ち取るなどなんとか撃退しましたが、208年には都督の陳就が呂蒙に討ち取られ、黄祖も逃亡したところを討ち取られてしまいます。

2017-02-06 20:20:52
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図&推し本三国志シリーズ @osacchi_basstrb

また207年に曹操が烏丸の討伐に向かうと劉備は劉表に許を襲うべきだと進言します。しかし劉表が動くことはありませんでした。

2017-02-06 20:24:01
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図&推し本三国志シリーズ @osacchi_basstrb

劉表は長男の劉琦ではなく、蔡氏との間にできた劉琮を跡継ぎに考えていました。劉琦は諸葛亮の入れ知恵に従って黄祖亡きあとの江夏太守に名乗り出て、外に出ることで身の安全を図ります。

2017-02-06 20:27:45
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図&推し本三国志シリーズ @osacchi_basstrb

劉表が荊州に入ることが出来た事情、および劉表の婚姻関係から蔡瑁をはじめとする豪族たちの意見が強かったのが劉琮が跡継ぎに推された理由なのでしょう。208年7月、曹操は劉表討伐に出兵しますが翌月劉表は病死し、劉琮が跡を継ぎます。

2017-02-06 20:32:02
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図&推し本三国志シリーズ @osacchi_basstrb

蒯越、蔡瑁らは劉琮に曹操への降伏を進言し、9月には劉琮が曹操に降ります。蒯越、蔡瑁、張允、劉先、傅巽ら重臣も曹操に取り立てられます。演義では殺されてしまう劉琮ですが、これは脚色で実際には後に青州刺史となり優遇されてます。

2017-02-06 20:36:23
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図&推し本三国志シリーズ @osacchi_basstrb

劉表に幽閉されていた韓嵩や劉表の元を辞していた鄧羲、宋忠ら儒学者も曹操に仕えるようになります。また荊州に戦乱を避けていた文化人(邯鄲淳、梁鵠、裴潜、和洽など)も曹操に身を寄せます。劉表の文化的遺産は曹操に吸収されたと言えるでしょう。

2017-02-06 20:41:06
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図&推し本三国志シリーズ @osacchi_basstrb

これに対して劉備は自分の兵を率いて南下し、江夏の劉琦と合流します。曹操を嫌い劉備に十万もの人が従っていましたが、曹操軍の攻撃を受けて散り散りになってしまいます(長坂の戦い)。赤壁での敗退があり劉備が荊州南部を押えると劉備に仕えた荊州人士は後の蜀漢の中心となります。

2017-02-06 20:53:18
おさっち@三国志群雄太守県令勢力図&推し本三国志シリーズ @osacchi_basstrb

さらに蜀と呉が荊州を争い、最終的には魏と呉で荊州を分けるようになりました。こうして劉表の支配した荊州とその人士は魏呉蜀の三国に分かれることになったのです。

2017-02-06 21:03:37
前へ 1 ・・ 3 4