- arishima_takeo
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最近考えていること。結婚したアイドルを憎むのも勝手だし、18禁小説を引用した研究者を憎むのも勝手だし、愛の告白をしてくる男性を憎むのも勝手だが、そこには単に憎しみがあるだけで、それ以上でも以下でもない……と考えない人が増えているのだとすれば、それはどうしてなのだろうか。
2017-08-25 10:07:16自分の憎しみが単なる憎しみのまま存在することに甲斐がないと感じてしまうのはなぜか。別言すれば、どうして人は簡単に自分の憎しみを政治的・社会的な正しさに譲り渡してしまうのだろうか。
2017-08-25 10:11:06憎しみは道理にかなって発生するのではない。だから、相手が正しく自分が完璧に間違っていたとしても(そしてそれをきちんと認識していたとしても)、相手を憎むことができるし、実際によく憎んでいる。
2017-08-25 10:16:46もし人を憎むのになんらかの正しさに依拠する必要があるのだとすれば、正しさの実現と共に憎しみは一律で禁じられるはずだ。が、世界がどれほど正しくても私はアイツが嫌いだ、という感情は、私の交換不能な私性を構成する一つなのではないか。憎しみの放擲と没個性化の問題。
2017-08-25 10:21:58朝の続き。アレントは公的領域に侵入した私的なものを社会的なものと呼んだ。自分の(18禁小説が論文に引用されたとか、弱者男性だから見下されてる気がするとか、興味ない男性から告白されたといった)個人的な不愉快を、「社会」問題に昇格させるとき、無駄になった時間が償われるように感じる。
2017-08-25 19:29:49一日欝欝として、気分が荒んで、落ち込み、生きているのもイヤだイヤだと感じる、あの不毛な時間が、救われたように感じる。だから、なんとか「社会」問題として登録しなければならない。あの時間も無駄ではなかったのだ、と思いたいから。
2017-08-25 19:37:40…が、ここに落とし穴があるのではないか。私的なものをことごとく社会的なものに譲渡してしまったとき、社会に囲繞された「私」は、社会決定論のなかの傀儡となる。そのとき、自分の困難の解消手段として頼ったはずの社会は、いつのまにか自分の固有性や尊厳を奪う重大な脅威に反転しているのでは。
2017-08-25 19:39:15世界に対して一貫して不快だ。生れてこなけりゃよかった。怒りを覚える。憎しみも抱く。だが、それは社会や他人が不正だからなのではない。私が私だから、不快だし、怒るし、憎む。世界が正しくったって、不快だし、怒るし、憎む。不快や怒りや憎しみをはした金で売り渡してはいけない。
2017-08-25 19:45:19新しいタイプの社会的なものの全景化は、きっと文学の衰退と同期している。社会問題に回収されない、この世の「むかつき」(サルトル)を処理するのは社会だけの仕事ではない。では、どんな文学が到来すれば、その攻勢に抵抗できるのだろうか? 今後の大きな課題だと思う。
2017-08-25 19:48:15きっと、無駄な時間をどう捉えるのかがが大事になる。時間のエコノミーは、健全で健康な感情のキープといつもキラキラした「私」を要求してくる。そこからあぶれるもの、不機嫌、ダウナーな一日、嫉妬の炎に対して、来るべき文学は社会とは別の仕方で肯定する道筋が求められるだろう。
2017-08-25 20:06:38このクソみたいな人生を、それでもいいといわねばならない。いや、いいと言わなくてもいい。駄目でもいいといわなければならない。駄目だからいいのではない、駄目だっていいんだ。
2017-08-25 20:10:28