ホラズム=シャー朝の第八代スルタン、ジャラールッディーンのお話
- hoshinospw
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みんなスルターン・ジャラールッディーン大好きみたいだから、時間までルスダンと関わるまでのジャラールッディーンのおさらいしようかなとか。 大体東洋文庫のドーソンの「モンゴル帝国史」(1巻と4巻)の話しだから、みんなも今度読んでみると良いよ!|ω・)>ダイマ #斜陽の国のルスダン
2017-08-25 22:11:13まずはジャラールッディーンの一族から。 11世紀の終わり、セルジューク朝の第3代スルタン・マリクシャーは奴隷軍人(グラーム)出身の将軍アヌーシュテギンという人物をホラズム地方総督(シャフナ)として派遣し以後代々ホラズムの領主はアヌーシュテギンの一門に世襲された。
2017-08-25 22:12:09その孫の第三代アトスィズ(位1127-56)はセルジューク朝最後の統一的君主だった第8代スルタン・サンジャル(位1118-57)が配下のオグズ集団の叛乱で落魄した事からセルジューク朝から独立を計り、名実共にホラズム地方の君主となった。これがホラズムシャー朝の起こり。
2017-08-25 22:13:15アトスィズの孫の第6代テキシュ(位1172-1200)は、セルジューク王族同士の内紛でがったがたになってた上オグズ集団の大叛乱でしっちゃかめっちゃかになってたイラン高原に侵攻して、1194年最後のセルジューク朝スルタン・トグリル3世を敗死させた。 ルスダンが生まれたのはこの頃。
2017-08-25 22:14:29テキシュを継いだのがその子第7代アラーウッディーン・ムハンマド(位1200-20)で、父テキシュのイラン東部征服の余勢をかって、当時アフガン中央部のゴール地方からインドへ進出していたゴール朝とイラン東部(主にホラーサーン地方)の覇権を争い、これを退けた。
2017-08-25 22:18:57ホラズムシャー朝の覇権は、元を正せば12世紀半ばのセルジューク朝のスルタン・サンジャルの没落とイラン東部の権力空白状態を利用してホラズム地方の恒久支配を確立した事にあるんだけど、それもあの西遼の耶律大石が1141年のダンダナカーンの戦いでサンジャルを打ち負かした事に由来する。
2017-08-25 22:23:28修正 ×ダンダナカーンの戦い
〇カトワーンの戦い
※ダンダナカーンの戦いは、1040年にセルジューク朝のトグリル・ベクがガズナ朝のマスウードを敗った戦い
この敗北でホラズムのアトスィズやサマルカンドとブハーラーを領有していたカラハン朝は西遼に貢納を毎年支払わねばならなくなったため、ホラズムシャー朝は「異教徒」である西遼=カラキタイに名目上臣従する事になってしまった。これはムスリム君主として屈辱そのものだった。
2017-08-25 22:28:37北インドにまで勢力を確立していたゴール朝を退けた事に自信をつけたスルタン・ムハンマドはとうとう西遼の羈縻から脱する事を決意し、1210年辺りから西遼皇帝軍と数度交戦する。>スルタン・ムハンマドは手ずから西遼の貢納使を斬殺したと伝えられるw
2017-08-25 22:42:16ところが、この数度の交戦の直後、西遼皇帝チルクが娘婿クチュルクに捕縛されるという椿事があった。実は東方のナイマン部族長ダヤン・カンの王子であったこのクチュルクとスルタン・ムハンマドは内応していて、クチュルクの権力奪取と引き換えにホラズムの独立を約束していたとか何とかw
2017-08-25 22:42:49で、とりあえずクチュルク政権下の西遼との和平で名実共にホラズムシャー朝の自立を獲得したスルタン・ムハンマドは、次に西遼との戦闘に同盟してた(スルタン暗殺計画云々を理由にw)カラハン朝の王族達を皆殺しにしサマルカンドとブハーラー、古のソグディアナ=マーワラーアンナフル地方を獲得した
2017-08-25 23:18:18チンギスカンの中央アジア遠征で、ホラズムシャー朝の都的な言われ方をするサマルカンドやブハーラーとこの両都市を首府とするマーワラーアンナフル地方だけど、実際はホラズム側の支配に下って十年経つかどうかってくらいだった。(ここ重要w)
2017-08-25 23:22:35さて、1212年の王子クチュルクの西遼皇帝位簒奪の時、東方のチンギスカンは何をしてたかというと、金朝をふるぼっこにしてw華北支配を確立していた。当然、クチュルクの簒奪がやがて西方へのモンゴル侵攻の口実になると睨んでいたスルタンはモンゴル軍による陥落直後の中都へ1215年使者を送る
2017-08-25 23:30:45このモンゴル帝国との「戦間期」にスルタン・ムハンマドは何をやっていたかと言うと、父テキシュや自らが獲得した地域の支配の確立やイラン西部への外征、(セルジューク朝のスルタン・トグリル3世の討伐を教唆してたw)アッバース朝カリフ・ナースィル(位1180-1225)らとの折衝に費やした
2017-08-25 23:39:01アッバース朝のカリフ・ナースィルといえば、十字軍との戦争で華々しい戦果を挙げていたエジプト・シリアを領有したアイユーブ朝のサラディンに難癖をつけて水をさしたりw、ムハンマドの父テキシュを教唆してスルタン・トグリル3世を敗死させたり、そのホラズムシャー朝にゴール朝をけしかけたりと、
2017-08-25 23:43:13このカリフ・ナースィルは10世紀以降すっかり弱体化したアッバース朝の政治力を回復させようと八面六臂の大活躍をした大君主なんだけど、どう頑張ってもアッバース朝の現実の支配権は首都バグダード以南のイラク南部地方を越え難かったので、あれやこれや策謀を巡らしカリフの実権を快復しようとした
2017-08-25 23:48:17で、ホラズムシャー朝のスルタン・ムハンマドも西アジア一帯のムスリム君主達が揃いも揃って煮え湯を飲ませられたこの希代のカリフに、やっぱり煮え湯を飲ませられる事になるw
2017-08-25 23:50:33スルタン・ムハンマドは、かつてのセルジューク朝の初代スルタン・トグリルに倣い、アッバース朝カリフを屈服させて自らの傀儡にし、イスラーム世界の覇権を握ろうと画策していた。実際彼は最後のセルジューク朝の英主でもあったスルタン・サンジャルを尊敬していたらしい。
2017-08-25 23:56:08で、スルタンはセルジューク朝がトグリル・ベク以来享受していた様々な特権や称号を我がホラズムシャー朝=スルタン・ムハンマド自身が享受できるようにカリフに申し入れたのだけど、これに対してカリフ・ナースィルはというと…
2017-08-26 00:07:59ナ「あ、ブワイフ朝やセルジューク朝の時にはうちら、ちょぉ〜っと弱ってたんで我が王権を支えてた彼らを頼ったけども、今は大丈夫だからお構いなくドスエwww(^^v」 みたいな事を言って、スルタン・ムハンマドの恫喝めいた要請を、けんもほろろにいなしてしまったw
2017-08-26 00:09:50これにスルタン、面目丸つぶれにされたものだから、「カリフ絶対許早苗!」とばかりに上京して力尽くでカリフ・ナースィルを屈服させようと、1215年イラン高原から直接ホラーサーン街道を西へバグダードに進軍した。ところがである。
2017-08-26 00:15:41カリフ・ナースィルはホラズムシャー朝軍進軍の知らせを受けると、近隣のファースル地方の君主、サルグル朝のアタベク・サアドやアーザルバーイジャーン地方の君主、イルデニズ朝のアタベク・ウズベクらにその迎撃を命じたのだが、両君主はホラズム側に敗退、二人ともスルタンの軍に捕縛されてしまった
2017-08-26 00:19:40修正 ×ファースル地方
〇ファールス地方
そう、若いルスダンが作中で「アゼルバイジャンやペルシアの王侯にお嫁に行くかも…」とか言っていたのは、グルジアの真南で今をときめくホラズムシャー朝軍がバグダードに攻め入るかも知れないとか、まさにこういう緊迫した国際情勢が展開していた時期だった。
2017-08-26 00:23:42一応ナースィルも進軍するスルタンの軍を牽制するため使者を送り思い留まらせようとしたが、得意絶頂のスルタン「いや、今のカリフはどうにもカリフとしての資質に疑念があるので、代りのカリフを立てようかなと。実際歴代カリフって内ゲバで監獄で生まれ育ってそのままぽっくりの人も多いですし?w」
2017-08-26 01:08:08