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江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の生涯をまとめてみた

江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の生涯をまとめてみました。使用した写真は古地図・肖像画・古写真を除き、投稿者が全て撮影したものです。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1866年8月29日(慶応2年7月20日)江戸幕府第14代征夷大将軍・徳川家茂が亡くなりました。家茂は幕末の動乱の中で「公武合体」として皇女・和宮と結婚します。しかし結婚生活は長く続かず第2次長州征伐の途上で家茂は大坂城で病に倒れ、享年20歳でその短い生涯を閉じたのです。#幕末 pic.twitter.com/W5Wr1i3mnv

2017-08-29 20:59:10
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訂正します。冒頭の享年20歳で亡くなったの部分ですが、正しくは満20歳で亡くなり、享年は数え年で享年では21歳で亡くなった事になります。

2017-09-06 15:15:45
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

徳川家茂は1846年7月17日(弘化3年閏5月24日)紀州藩第11代藩主・徳川斉順(清水徳川家で紀州徳川家の当主)の次男として江戸の紀州藩邸で生まれました。幼名は菊千代。父・斉順は家茂が生まれる前に薨去しています。祖父は第11代将軍・徳川家斉です。#幕末 #紀州徳川家 pic.twitter.com/2sZI0VV92O

2017-08-30 19:32:33
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1849年(嘉永2年)叔父で第12代藩主・徳川斉彊が死去した為、菊千代はその養子となり家督を4歳で継ぎます。1851年(嘉永4年)菊千代は元服し、第12代将軍・徳川家慶より1字を賜い慶福(よしとみ)と名乗ります。慶福の紀州藩主としての治世は9年2ヶ月でした。#幕末 #紀州徳川家 pic.twitter.com/SgaCYLPceh

2017-08-30 20:06:07
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徳川家茂を語る上で外せない話題が「将軍継嗣問題」です。以前「桜田門外の変をまとめてみた」でも少し触れたのですが、今回はもう少し深く掘り下げていきたいと思います。12代将軍・徳川家慶の嫡男・家祥(後の家定)は病弱で言動も定かではなかったと伝わります。#幕末 #将軍継嗣問題 pic.twitter.com/mJFT43BFHw

2017-08-30 21:12:03
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これを憂慮した島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭ら有力大名は、有事に対応出来る将軍が必要と考え斉昭の実子・一橋慶喜擁立に動きます。これに対し保守的な譜代大名や大奥は、家定に血筋が近い従弟の紀伊藩主・徳川慶福を擁立。前者を一橋派、後者を南紀派と呼びました。#幕末 #将軍継嗣問題 pic.twitter.com/CKung7o8kt

2017-08-30 23:11:41
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斉昭の実子・一橋慶喜擁立には、老中・阿部正弘もこれに加担していたとも伝わります。ところが阿部正弘が急死すると、阿部による安政の改革に反発する譜代大名の巻き返しが始まります。そして「大奥の粛正」を唱える斉昭に反発する大奥もまた、これに加わっていくのです。#幕末 #将軍継嗣問題 pic.twitter.com/Z6SX5dyATA

2017-08-31 00:18:04
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更に条約勅許問題を巡る開国派と攘夷派の対立も加わり、事態はより複雑化します。一橋派では島津斉彬は開国派、徳川斉昭は攘夷派に属し、互いに自藩の外交路線実現の為にそれぞれ次期将軍候補を擁立したという側面もありました。#幕末 #将軍継嗣問題 pic.twitter.com/jRB2mku9Ul

2017-08-31 00:38:08
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老中・阿部正弘の急死に一橋派は少なからぬ打撃を受けます。そんな折に越前福井藩主松平慶永(春嶽)の懐刀と呼ばれた福井藩士・橋本左内は、一橋派の為に東奔西走。将軍継嗣は英傑・人望・年長の3条件を揃えた人物が望ましいと朝廷の内意を受ける所まで漕ぎ付けます。#幕末 #将軍継嗣問題 pic.twitter.com/ZHsnPLeguc

2017-08-31 23:45:26
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しかし、幕府に伝えられた勅書にはどこを探しても左内が奔走した先の3条件は書かれていませんでした。南紀派に抱き込まれた関白・九条尚忠が朝議の決定を無視して独断で3条件を削ってしまい、これで将軍継嗣問題は振り出しに戻ってしまったのです。#幕末 #将軍継嗣問題 pic.twitter.com/P6def172Ew

2017-09-01 00:05:36
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家定は将軍継嗣問題にも表舞台に出る事がほぼ有りませんでしたが、1858年(安政5年)6月 諸大名を招集して慶福を将軍継嗣にするという意向を伝え、同年8月に一橋派の諸大名の処分を発表します。家定が将軍らしい行動を見せたのは、これが最初で最後であったそうです。#幕末 #将軍継嗣問題 pic.twitter.com/owxKi9gyPh

2017-09-03 23:23:40
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時を同じくして1858年(安政5年)6月 南紀派大名らの政治工作により、近江彦根藩15代藩主・井伊直弼が大老に就任。家定が何故年齢が若すぎる慶福を後継者に推したのか?南紀派の画策説も有りますが、家定が慶喜を嫌い慶福を指名したとする説もあるようです。#幕末 #将軍継嗣問題 pic.twitter.com/ALjqFUggc4

2017-09-04 00:02:55
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1858年8月14日(安政5年7月6日)13代将軍・徳川家定は薨去。享年35歳の早すぎる死でした。後を養子となった慶福改め家茂が継ぎ14代将軍に就任します。家定の死により12代将軍・徳川家慶の血筋はここに断絶するのです。#幕末 #将軍継嗣問題 pic.twitter.com/yVcTFAoI51

2017-09-04 00:26:57
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家茂はこの時13歳という若年でしたが、13代将軍・徳川家定の従兄弟だった為、血縁を徳川家康まで遡らなくてはならない一橋慶喜を抑えて14代将軍に就任します。しかし、将軍就任後は田安慶頼や一橋慶喜が「将軍後見職」に就いた為、その権力は抑制されていました。#幕末 #将軍継嗣問題 pic.twitter.com/RcB30RYWWF

2017-09-04 22:21:27
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1862年(文久2年)家茂は和宮親子内親王と結婚。和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約中でしたが、幕府の公武合体要請で熾仁親王との婚約は破棄され、家茂に降嫁します。翌1863年(文久3年)将軍として229年振りの上洛を果たし、義兄・孝明天皇に攘夷を誓いました。#幕末 #将軍継嗣問題 pic.twitter.com/6cocqQnC9q

2017-09-05 02:31:35
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1866年(慶応2年)第2次長州征伐の途上、大坂城で家茂は病に倒れました。この知らせを聞いた孝明天皇は典薬寮の医師2名を大坂へ派遣。江戸城からも天璋院や和宮の侍医らが大坂へ急ぎ向かいました。#幕末 #将軍継嗣問題 pic.twitter.com/7gKMwMH7I0

2017-09-05 20:11:42
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1866年8月29日(慶応2年7月20日)家茂は脚気衝心により享年21歳で薨去します。脚気とはビタミンB1欠乏症の1つで、心不全と末梢神経障害をきたす疾患です。心不全で下肢の浮腫みが、神経障害で下肢の痺れが起きる為「脚気」の名で呼ばれます。#幕末 #将軍継嗣問題 pic.twitter.com/JKUBczOK15

2017-09-05 20:33:34
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心臓機能の低下・不全(衝心)を併発する事から、脚気衝心と呼ばれる事もあります。ビタミンB1は糖質(炭水化物)の代謝と神経や心臓の正常な機能に必要不可欠です。末梢神経障害の症状として、つま先に針で刺されているような痛みがあるそうです。#幕末 #将軍継嗣問題

2017-09-05 21:28:08
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心臓の症状としては心拍数が増加し、やがて心不全に至り脚や肺に水が溜まります。その結果、血圧が下がりショックに至る事もあるそうです。 江戸時代の頃から富裕層や将軍の間で玄米から精米されたビタミンB1を含まない白米を食べる様になった事が「脚気」の原因の1つではと考えられています。

2017-09-05 22:21:21
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その後、その習慣は庶民にまで広がり副食を十分に摂らない事から、大正期までに多くの患者・死亡者を出し結核と並ぶ二大国民病といわれました。 家茂は死に際して徳川宗家の後継者・次期将軍として田安亀之助(慶頼の子で後の将軍家第16代当主・徳川家達)を指名していたようです。 pic.twitter.com/bNhWcWTtrx

2017-09-05 22:33:08
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1958年~1960年(昭和33~35年)増上寺の徳川将軍家墓地改葬の際に徳川家の人々の遺骨の調査がありました。その著書では家茂の歯の虫歯の度合いは酷く、残存する31本の歯の内、30本が虫歯にかかっていたと書かれているそうです。#幕末 pic.twitter.com/yD6VKia1R7

2017-09-05 22:52:18
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記録などから総合するとその虫歯が家茂の体力を弱め、脚気衝心や医師間の診断内容の相違(漢方典医は脚気と診断しますが、西洋医の幕府奥医師達はリウマチだとして譲らなかった)も加わり、家茂の命を奪ったのではないかと推測されます。#幕末 pic.twitter.com/g9bptJylRM

2017-09-05 22:57:30
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また墓地改葬の際に、和宮の墓の中から家茂と思われる男性の肖像写真が発見されます。この時まで家茂は義兄の孝明天皇に倣って写真は撮影していなかったと思われていたのですが、この写真は死の直前に大坂で撮影され、江戸に居る和宮に贈られたものではないかと思われます。(諸説あり)#幕末 pic.twitter.com/g4usJvJjQl

2017-09-05 23:03:26
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

しかし、写真が湿板写真だったので発見の翌日に検証しようとしたところ、保管状態が悪かったのか画像は消えてしまいます 。発掘した歴史学者によると、写真の男性は「長袴の直垂に烏帽子をかぶった若い男性」で「豊頬でまだ童顔を残していた」そうです。#幕末 pic.twitter.com/3Hov2o5SS5

2017-09-05 23:08:23
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

果たして写真の男性は和宮の夫・家茂だったのか?それとも・・・ その真相は今も謎のまま。いえ、170年以上も経った現在も仲良く並んで安らかに眠る家茂・和宮夫妻しか知り得ないのかもしれません。#幕末 pic.twitter.com/1syNgKBCbK

2017-09-05 23:13:42
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