吉田御師について

富士信仰の担い手として知られる、甲州郡内領上吉田(現・山梨県富士吉田市上吉田)の吉田御師について、ガチの富士信仰研究者がつぶやく。
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大谷正幸(録誌斎) @64sai

ちょっと吉田御師の話をしようかなと思っている。彼らについてはなかなかわかりにくいし、これ読めば「全てがわかった気になれる」というものも無い。結論だけ先に言っとくと、「吉田御師は戦後に滅びた。ただ、末裔でそう名乗って民宿を経営している家は今もある」ということ。

2017-07-08 10:21:28
大谷正幸(録誌斎) @64sai

「吉田」御師とつけているだけに、これから書く話は御師と名乗る人たちがいる富士山の他の登山口、河口、須走、須山には当てはまらない【重要】。あくまでも吉田口だけのこと。

2017-07-08 10:24:08
大谷正幸(録誌斎) @64sai

御師とは何かという問いに、富士信仰を布教した宗教者だという謂いがよく見られる。しかし近世、宗教者が職業だった時代において彼らは名字帯刀を許された武士身分だった。もっと古くは「すっぱ侍」として武田信玄や小山田信茂に従軍したし、幕末には「蒼龍隊」という草莽隊を結成した。

2017-07-08 10:30:26
大谷正幸(録誌斎) @64sai

だから彼らが宗教者だというのは厳密には正しくない。不二道の審問の際にも「我々は父祖伝来の信仰をしてるだけ」と言ってるところからみても、僧侶神官の類ではない。

2017-07-08 10:32:55
大谷正幸(録誌斎) @64sai

現代の人たちから見れば、北口本宮の御師団や神官やってる御師の人たちは何?となるであろう。それは後で説明する。

2017-07-08 10:34:05
大谷正幸(録誌斎) @64sai

吉田御師は登山口がある吉田口の神社門前に街をかまえて(中世末までは古吉田という、もっと東よりの地にあった)、登山者の世話をするサービスをした。これは宗教的ではないものとして宿泊・強力の世話・山役銭(入山料)の徴収があり、宗教的なものとしては入山の修祓、信仰グッズの販売がある。

2017-07-08 10:39:41
大谷正幸(録誌斎) @64sai

吉田御師たちが信奉する富士信仰なるものは、彼らが神仏混交して作り出したもので、例えば大宮の社家や村山の富士修験のように宗教的権威があるわけではない。こういう自家アレンジはどこの山岳信仰にもあるだろう。

2017-07-08 10:43:22
大谷正幸(録誌斎) @64sai

18世紀半ばに角行系を利用して「富士講」なる商品を開発するまでは、富士山の本地は大日如来とか不動明王で、山中の各地に薬師如来とか観音がいて…というものばかりだった。こういうのも他の山岳信仰にもあるだろう。

2017-07-08 10:44:53
大谷正幸(録誌斎) @64sai

吉田御師は身分としては武士で、使用人や強力に対して一種の擬制家族となる。そこら辺は一般的な武家に通じるものがある。強力は近世以前において御師の従者のような存在である。御師たちは上吉田(主に御師町)を合議制で支配する。ただし年行事という代表者を置く。

2017-07-08 10:50:44
大谷正幸(録誌斎) @64sai

近世初期以降上吉田は天領で、政治的に直接支配されているのは谷村、のちに石和の代官所である。何か代官所とやりとりがあると年行事が行うことになる。ただ、幕府から見ると御師はあくまで民間人であるため「御」師とは名乗らせない。なので「師職」と文書では表記される。

2017-07-08 10:54:26
大谷正幸(録誌斎) @64sai

近世の吉田御師には、特定の神社の神官を務める家がある。まず現在「北口本宮冨士浅間神社」の小佐野常陸。北口本宮なる言い方は近世後期以降のもので、それまでは河口の浅間神社を指していた。「下浅間」など通称される。「上浅間」は二合目にあった御室浅間のことだ。

2017-07-08 11:00:47
大谷正幸(録誌斎) @64sai

他には新倉浅間神社の小佐野大和、下吉田浅間神社の小佐野右近、小御嶽の小佐野伊賀。下の名前が受領名だったり東百官だったりするのはやはり武士だから。田舎にありがちなことだけど同じ姓の家は多い。小佐野、田辺、小沢(こざわ)など。吉田では田辺さんが多いことを「十八田辺」などという。

2017-07-08 11:05:19
大谷正幸(録誌斎) @64sai

彼らも基本的には御師で、上吉田の自宅に道者を宿泊させる。富士山は地元の人たち以外、信仰や参詣のために入山するというのが建前になっている。だから、富士山に登る外来の客はみんな「道者」として修行者の扱いになる。ただ、この建前は維新になって放棄された。

2017-07-08 11:08:07
大谷正幸(録誌斎) @64sai

御師たちは基本的に富士山に依存する季節商売なので、富士山のシーズン以外は宿泊業をしない。ではどうやって寒い時期の糊口をしのぐのかといえば、廻壇と配札である。彼らは顧客のことを檀家という。これらは懇意にする特定の富士講を除けば村単位で、どこの国のどこ村という形で管理する。

2017-07-08 11:12:16
大谷正幸(録誌斎) @64sai

これらの村を縄張りとして、強力の従者を連れ、手土産を持って、お札を売って回る。御師にとっては数か月に及ぶ旅となる。この上がりが現金収入となる。そして、この村々は束ねた形で御師同士で売買される。これを御師株という。

2017-07-08 11:15:39
大谷正幸(録誌斎) @64sai

御師という立場は、お金さえあれば新規参入も可能で、逆に御師株を売って廃業するものもいた。ただ、何十軒もあるので古い御師の家を本御師、新しいのを町御師と言ってやはり格式めいたものはある。中世からあるような家の方がやはりエライ。

2017-07-08 11:19:23
大谷正幸(録誌斎) @64sai

私は、江戸近郊に起きた富士講が、そうして新規参入してきた御師・田辺近江やその子たちによって開発された商品だと考えている。彼らが町御師であるにも関わらず近世中―後期に栄えたのは、角行系の富士講が従来の吉田で行われた富士信仰に対するイノベーションだったからだ。

2017-07-08 11:22:59
大谷正幸(録誌斎) @64sai

信仰のノウハウ、例えばお札の書き方みたいなものがやはりあり、御師間で流通していたらしい。あるいは盗んじゃったみたいなケースもあったとは思うけど、こうしたノウハウを得られないと商売としてはやっぱりだめだったと思われる。

2017-07-08 11:25:52
大谷正幸(録誌斎) @64sai

明治初年になって、神職の世襲が禁止された。これは富士山周りの神社でも同じで、大宮の富士氏も吉田の各社神官の家も世襲できなくなった。そこへ東京の教部省から天下って、富士山周りの各神社を掌握したのが宍野半。彼は大宮の宮司を始め、下浅間などに君臨した。

2017-07-08 11:32:57
大谷正幸(録誌斎) @64sai

宍野の目的は富士信仰を束ねて国家神道に動員させることだったのけれど、そのための団体として富士一山教会(名前には多少揺れがある)を作って富士講をまとめようとした。そして東京に教会を作るために、下浅間にあった梵鐘だった銅塊を無断で売却してしまう。

2017-07-08 11:36:24
大谷正幸(録誌斎) @64sai

富士山麓の各信仰集落でも廃仏毀釈は行われていて、上吉田でも宍野が来る前に下浅間の仁王門が壊されたり(礎石だけが残っている)した。梵鐘もその時に鋳つぶされたのだけど、塊として残っていたらしい。結果、宍野は福地村と改称した吉田の村民に突き上げられた。

2017-07-08 11:40:29
大谷正幸(録誌斎) @64sai

そのお金は宍野に賛同する御師の小沢彦遅や竹谷雪枝が弁済する旨のわび証文を村に書いて落着するのだけど、宍野はおそらくこれをきっかけにして、浅間社掌握を放棄して教会の経営に専念することとなった。

2017-07-08 11:42:39
大谷正幸(録誌斎) @64sai

大宮や下浅間はトップがいなくなっても止めてしまうわけにはいかないので、代わりの人を立てて経営した。下浅間の場合は狛俊学がそれにあたる。吉田御師たちは既に宍野と反宍野の立場に別れていて、親宍野の人たちは彼についていったからいなくなり、狛たちは反宍野の団体として北口教会を立ち上げる。

2017-07-08 11:46:25
大谷正幸(録誌斎) @64sai

ただ、いなくなりといっても、実際に立ち退いたわけでもなく、上吉田の町では共存し続けた。やはり小沢や竹谷にとっては御師が本業であり、またそうせざるを得ない程には教派神道の団体は富裕ではない。

2017-07-08 11:49:24
大谷正幸(録誌斎) @64sai

今、北口本宮にある御師団なるものができたのはその後のこと。『富士山登山口御師の住まいと暮らし』(富士吉田市教育委員会、2009)で、紙谷威廣氏は外川家の史料から御師団が組織として確立したのは大正十年ごろと論じている。

2017-07-08 11:55:11