幕末の薩摩藩 藩主・島津斉彬公の生涯をまとめてみた

幕末期の薩摩藩 第11代藩主で島津家第28代当主・島津斉彬公の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1858年8月24日(安政5年7月16日)薩摩藩・11代藩主で島津家第28代当主の島津斉彬が亡くなりました。享年50歳。大老・井伊直弼が「安政の大獄」を断行し、将軍継嗣問題でも対立した斉彬はこれに異を唱える為兵を連れ江戸に向かおうとしていた矢先の突然の死でした。#幕末 #島津斉彬 pic.twitter.com/HctKyR4IX5

2017-08-24 20:53:31
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島津斉彬は、1809年(文化6年)4月、第10代藩主・島津斉興の長男として江戸の薩摩藩邸で生まれました。母・弥姫(周子)は「賢夫人」としてその名を知られた女性で、この時代には珍しく斉彬をはじめ自らが産んだ3人の子供には乳母をつけず、弥姫自身の手で育てています。#幕末 #島津斉彬 pic.twitter.com/iXIgUMT3HF

2017-08-25 17:15:47
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斉彬は青年期まで存命していた曽祖父第8代藩主・重豪の影響を受け洋学に興味を持ちます。これが周囲の目に蘭癖と映った事が皮肉にも薩摩藩を二分する抗争の原因の1つになったともいわれます。 蘭癖とは江戸時代、蘭学に傾注したり、西洋式の習俗を憧憬・模倣するような人を指した呼び名です。 pic.twitter.com/LHGbCTQAap

2017-10-06 18:53:19
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この蘭癖と併せて当時の薩摩藩の財政状況について少し時代を遡ってみたいと思います。薩摩藩では多くの郷士を抱え、士分の者が全人口の約40%を占めていました。 また藩内の土壌の多くは水持ちが悪く、稲作には適さないシラス台地でした。

2017-10-06 19:35:43
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土地も貧しく表高は77万石でしたが、実質は35万石ほどの収益しかありませんでした。また台風や火山噴火などの自然災害を受け易い立地でもあり、藩政初期から財政は窮迫していたのです。 こうした中で徳川幕府の有力藩に対する弱体化政策の下で、大規模な御手伝普請を割り当てられます。 pic.twitter.com/jYUBJEBjHv

2017-10-06 19:39:37
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特に1753年(宝暦3年)に命じられた木曽三川(現:岐阜県濃尾平野を流れる木曽川・長良川・揖斐川)改修工事の多大な出費では、所領が現場から遠く藩財政は危殆に瀕しました。 工事を指揮した薩摩藩家老・平田靱負は、多くの犠牲者と藩財政の疲弊の責任を取り、工事完了後に自害しています。 pic.twitter.com/YyFxfX3Sb1

2017-10-06 20:35:22
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第8代藩主・島津重豪は閉鎖的だったそれまでの藩政を改革。1773年(安永2年)藩校造士館と演武館の設立を手始めに、医学院や明時館など次々に学校を設立し、農業書などの各種図書の編纂事業も行いました。 また幕府との結びつきを強める為、三女の茂姫を11代将軍・徳川家斉に嫁がせます。 pic.twitter.com/i3rKr80fD7

2017-10-06 20:55:01
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外様大名から将軍正室を輩出したのは薩摩藩だけだそうです。 これらの豪奢な事業で薩摩藩の全国的な政治的影響力は格段に上がったものの、藩財政は更に困窮の度を増してしまいます。 当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前でした。

2017-10-06 21:07:04
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1809年(文化6年)「近思録崩れ事件」が起こります。 1787年(天明7年)重豪の子・島津斉宣は家督を継承し、薩摩藩第9代藩主となりますが、未だ実権は父・重豪に掌握されていました。 逼迫する藩財政に危機感を感じた斉宣は、薩摩藩家老・樺山主税・秩父季保ら近思録派の家臣を登用。

2017-10-06 23:16:48
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斉宣は緊縮財政政策を行なおうとしたのですが、華美な生活を好む重豪は斉宣の政策に反対して斉宣を隠居させ、樺山らには死を命じます。 やがて重豪は斉宣を隠居させ、孫の島津斉興を次期藩主に擁立。自ら後見人となり、政権を掌握し続けたのです。 pic.twitter.com/5HvSw1FT9V

2017-10-06 23:23:46
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余談ですが、島津斉宣は13代将軍・徳川家定の妻、天璋院篤姫の祖父になります。斉宣の七男が今和泉島津家第10代当主・島津忠剛で篤姫の父です。 晩年になり重豪は藩の財政改革にようやく取り組み始め、下級武士の調所広郷を重用。

2017-10-06 23:51:53
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調所広郷を中心に藩政改革が断行され、藩債整理・砂糖専売制の強化・琉球貿易の拡大などを打ち出して藩財政はようやく好転します。 老いてますます盛んな重豪は曾孫の島津斉彬の才能を高く評価し、斉彬と共にシーボルトと会見。当時の西洋の情況を聞いたりしています。 pic.twitter.com/EQWzrZyFbM

2017-10-07 00:12:30
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重豪は斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らします。 重豪はローマ字を書き、オランダ語を話せたと伝わっており、会見したシーボルトは「重豪公は80余歳と聞くが、60歳前後にしか見えない。開明的で聡明な君主だ」と述べています。 pic.twitter.com/Bhh93uQsm9

2017-10-07 00:38:27
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1809年(文化6年)6月 島津斉興は近思録崩れの責任を取る形で父・斉宣が祖父・重豪によって強制隠居させられた為、家督を継いで第10代藩主になります。 しかし藩主になったとはいえ、形ばかりで藩政改革などの実権は祖父の重豪に握られていました。

2017-10-07 01:00:18
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1833年(天保4年)重豪が89歳で亡くなると斉興はようやく藩政の実権を握り、重豪の代からの藩政改革の重鎮・調所広郷を重用して、財政改革を主とした藩政改革に取り組みます。 藩政改革では調所主導で借金の250年分割支払いや清との密貿易・砂糖の専売などが大いに効果を現わします。

2017-10-07 01:19:53
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薩摩藩の財政は一気に回復し、1840年(天保11年)には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復します。 しかし、1848年(嘉永元年)幕府から密貿易の件で咎められ、責任者の調所は12月に急死。斉興に責任を及ばさない為に1人で罪を被り、服毒自殺したといわれます。 pic.twitter.com/U05hXysnYK

2017-10-07 01:29:51
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この背景には斉彬と幕府老中・阿部正弘らと結託があったと伝わります。 斉彬は、薩摩藩の密貿易(藩直轄地の坊津や琉球などを拠点としたご禁制品の中継貿易)に関する情報を故意に幕府に流し、父である斉興や、家老になっていた調所らの失脚を図ったともいわれています。

2017-10-07 01:40:15
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斉興の後継ぎを巡り藩内では争いが起きていました。斉興には成人した男児に正室・弥姫との間に嫡子・斉彬が、側室・お由羅の方との間には五男・久光が居ました。 本来ならば嫡男の斉彬が継ぐはずですが、斉興はお由羅とその間に生まれた久光を溺愛し、彼を後継者にしようと考えていたようです。 pic.twitter.com/sgIf03vQNB

2017-10-07 01:46:29
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しかし藩内では聡明な斉彬を後継者に薦める者も居て、次第に藩内は混乱していきます。やがてこの混乱は「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動に発展。 この一連のお家騒動の原因は彼女が息子・久光の藩主襲着を謀り、正室出生の斉彬廃嫡を目した事だとされています。

2017-10-09 22:46:52
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しかし、これはお由羅が望んだだけではなく、祖父・重豪の影響が強い斉彬を嫌っていた斉興や家老・調所広郷などの重臣達が久光を後継者にと望んでいたいう説もあります。 彼らは、「蘭癖大名」と見られていた斉彬がこの頃ようやく黒字化した薩摩藩の財政を再び悪化させるのではと恐れていたのです。 pic.twitter.com/74XKaqbQ2C

2017-10-09 22:54:15
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祖父・重豪に溺愛され、開明的で西洋に興味を示していた斉彬が藩主に就任すれば、重豪の様に公金を湯水のごとく費やし、藩財政の困窮に一層の拍車をかけかねないと特に藩上層部に心配されてもいたのです。 斉興は斉彬が40歳を過ぎてもまだ家督を譲ろうとしませんでした。

2017-10-09 22:56:43
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琉球を実効支配し、外洋にも面していた薩摩藩はこの当時多発していた外国船の漂着・襲来事件に巻き込まれる事が多々ありました。 この為、西洋の事情に疎い斉興よりも海外事情に明るい斉彬の藩主襲封が望まれてもいたのです。

2017-10-09 23:05:18
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それに対し、斉彬の早期の家督相続を希望していた勢力もあったようです。壮年の斉彬にいつまで経っても家督相続せず、倹約ばかりを強いる斉興へ反発を感じる若手下級武士や、斉彬を高く評価する阿部正弘です。 pic.twitter.com/5AhNuRZrLR

2017-10-09 23:03:03
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1849年(嘉永2年)12月 お家騒動(お由羅騒動)が勃発。 これは、斉彬の擁立を望む斉彬派の重鎮で町奉行兼物頭・近藤隆左衛門、船奉行・高崎五郎右衛門らが、久光・お由羅及びその取り巻きの重臣らの暗殺を謀議したとの咎で捕縛され、間もなく切腹を言い渡された事件です。

2017-10-09 23:16:01
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

斉興の処分を逃れて脱藩に成功した一部の斉彬派の藩士は福岡藩に逃げ込みます。藩主・黒田長溥は斉彬の年下の大叔父でした。 実家の騒動を見過ごせなかった長溥は、斉興が脱藩士を引き渡すよう強要しても拒絶し、実弟の八戸藩主・南部信順と計って老中・阿部正弘に事態の収拾を訴えます。 pic.twitter.com/G3kQo9HSrO

2017-10-11 20:48:40
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