幕末の薩摩藩 藩主・島津斉彬公の生涯をまとめてみた

幕末期の薩摩藩 第11代藩主で島津家第28代当主・島津斉彬公の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

以前から斉彬を買っていた正弘は12代将軍・徳川家慶に斉興へ隠居を命ずるよう要請します。これを受けた家慶は斉興に茶器を下し、暗に隠居を促します。 当時、茶器や十徳を賜るのは隠退勧告とされていました。 将軍命令では斉興も拒絶出来ません。 pic.twitter.com/GpT6ZzXLvL

2017-10-11 20:54:39
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1851年(嘉永4年)3月 遂に斉興は42年勤めた藩主を心ならずも隠居し、家督を斉彬に譲る事になったのです。 ちなみに騒動の首謀者とされるお由羅の方には、その後特に大きな処分はなく、1866年(慶応2年)12月 鹿児島城下で死去しています。

2017-10-11 21:15:14
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11代藩主に就任した斉彬は藩の富国強兵に努め、洋式造船・反射炉・溶鉱炉の建設や地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興しました。 1851年(嘉永4年)7月には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し、藩士に造船法などを学ばせます。 pic.twitter.com/8IcdFVAUeT

2017-10-11 22:53:45
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1854年(安政元年)斉彬は洋式帆船「いろは丸」を建造し、帆船用帆布を自製する為に木綿紡績事業を興しました。 また、西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上。「昇平丸」は後に蝦夷地開拓の際に咸臨丸と共に大きく役立ちます。 pic.twitter.com/xFSUG3ev9g

2017-10-11 23:02:16
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黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」を建造・運行にも成功。また下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局にも関わっていきます。 また、斉彬は松平慶永・伊達宗城・山内豊信・徳川斉昭・徳川慶勝らと藩主就任以前から交流を持っていました。 pic.twitter.com/h8wP3r3r7X

2017-10-11 23:32:14
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斉彬は彼らと共に幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えます。特に黒船来航以来の難局を打開するには「公武合体」「武備開国」をおいてほかにないと主張します。 斉彬は阿部正弘の内諾を受け、薩摩藩の支配下にある琉球王国を介して、フランスとの兵器購入・交易を画策。 pic.twitter.com/BtW0dlnL5A

2017-10-11 23:53:12
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斉彬はこのフランスとの交易・兵器購入に際し薩摩藩士・市来四郎を派遣しますが、後の斉彬の急死でこの計画は頓挫します。 1857年(安政4年)の阿部正弘の死後、翌1858年(安政5年)に大老に就いた井伊直弼と斉彬・松平慶永・徳川斉昭らは将軍継嗣問題で真っ向から対立。 pic.twitter.com/CXzNS8CShh

2017-10-12 00:00:32
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3代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かった為、斉昭らは次期将軍に斉昭の子の慶喜を推し、篤姫を近衛家の養女にした上で家定の正室として嫁がせます。 斉彬は公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を請願しています。一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福を推していました。 pic.twitter.com/WabTV5ohvZ

2017-10-12 00:16:25
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訂正を1つ。島津斉彬公の生涯をまとめたツイで誤記がありました。 謝 3代将軍家定 正 13代将軍家定 です。失礼しました(;´・ω・)

2017-10-13 14:12:14
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井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始します。 結果、慶福が14代将軍・徳川家茂となり、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れたのです。 pic.twitter.com/KHGVIKcFDi

2017-10-12 00:23:38
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斉彬はこれに対し、藩兵5000人を率いて抗議の為、上洛する事を計画します。しかし、その年の8月16日に鹿児島城下で出兵の為の練兵を観覧の最中に発病し、8月24日に亡くなりました。享年50歳。 死因は当時、日本で流行していたコレラという説が有力です。

2017-10-12 19:31:28
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しかし、突然の死は嫡子がいずれも夭逝していた事や、父・斉興や異母弟・久光やその支持者の陰謀だとの噂もあります。 斉彬の遺言で薩摩藩は久光の長男・忠義が後を継ぎます。遺言では忠義に斉彬の長女を嫁がす条件で仮養子とし、四男・哲丸を後継者にする事で相続争いを未然に防止していました。 pic.twitter.com/zGpnT1Ac7u

2017-10-12 20:25:49
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鹿児島市照国町にある照国神社。祭神は島津家28代当主の島津斉彬公です。境内には斉彬公をはじめ、島津久光や斉彬の死後、薩摩藩第29代当主となった島津忠義の銅像が在ります。 斉彬は久光の母・お由羅の方の事はひどく嫌っていたそうですが、弟の久光との仲は険悪ではなかったと伝わります。 pic.twitter.com/l29sJnFiyB

2017-10-12 20:35:02
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実の父・斉興には疎まれ、道半ばでこの世を去った斉彬公ですが、その遺志は弟の島津久光・甥の島津忠義へと引き継がれます。 薩摩藩はその後、長州藩と薩長同盟を結んで明治維新の原動力となり、明治以降の長きに渡り、日本の政治を支配する薩摩閥を形成していくのです。 #幕末 #島津斉彬 pic.twitter.com/67To4UxEz2

2017-10-12 20:42:28
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