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小話。途中から松岡正剛で日本史を振返る。

鎌倉仏教とか中心に、のはずが
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遠山太郎(TOKYO) @touyama_t

 水戸藩のほうでは、斉昭が幕政改革をおりこんだ「戊戌封事」を将軍に上程していたが、その扱いを含めて激怒するようなことが連続し、その力は内部に向かい(外への怒りはたいてい中に向って吹きだまる)、敬神排仏の宗教政策などに転化するにつれ、藩内にもさまざまなきしみが悲鳴をあげはじめていた

2011-05-29 00:58:45
遠山太郎(TOKYO) @touyama_t

そこへ弘化元年(1844)、幕府が斉昭を隠居謹慎に処分する。ここにおいてついに水戸イデオロギーは、尊王攘夷を広く天下に知らしめる決断をもったのである。そのリーダー格となったのが藤田東湖だった

2011-05-29 00:59:56
遠山太郎(TOKYO) @touyama_t

東湖もいったん江戸の一室に幽閉されていたのだが、ここにおいて起爆する。弘化元年5月、39歳になっていた東湖は有名な『回天詩』を綴る。「皇道なんぞ興起せざるを患(うれ)えん。斯の心奮発して神明に誓う。古人云う、斃(たお)れてのち、已(や)むと」に終わる。

2011-05-29 01:01:00
遠山太郎(TOKYO) @touyama_t

 尊王攘夷という新しい言葉をつくったのはほかならず、徳川斉昭なのである。『弘道館記』に初出する。が、その尊王攘夷をイデオロギーとして動かしたのは、藤田東湖だった。  斉昭はこう書いた、「我が東照宮、揆乱反正、尊王攘夷、まことに武、まことに文、以て太平の基を開きたまふ」。

2011-05-29 01:01:34
遠山太郎(TOKYO) @touyama_t

これを東湖は次のようにパラフレーズした。「堂々たる神州は、天の日之嗣、世の神器を奉じ、万方(ばんぽう)に君臨し、上下内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるがごとし。然らばすなわち尊王攘夷は、実に志士仁人の、尽忠報国の大義なり」。

2011-05-29 01:01:39
遠山太郎(TOKYO) @touyama_t

尊王攘夷の矢は放たれた。時代はいよいよ安政。その2年後、水戸を大地震が襲った。この地震で東湖が死んだ。その直前のこと、一人の青年が萩から水戸を訪れた。矢も縦もたまらず水戸まで走ってきた吉田松陰である。この松陰の水戸行は、この直後に尊王攘夷が全国に飛び散っていく最初の弾道となった

2011-05-29 01:03:45
遠山太郎(TOKYO) @touyama_t

ここから先の幕末の激変については、とくに付け加えたいことはない。桜田門に井伊直弼を水戸浪士が暗殺してからというもの、もはや水戸イデオロギーは知行合一どころか、水戸激派の行動ばかりになっていく。

2011-05-29 01:04:09
遠山太郎(TOKYO) @touyama_t

水戸藩内も天狗党の跳梁を内部の敵として鎮圧する羽目になり、それまでながらく雌伏していた薩長土肥の口裏あわせた一斉の台頭にはまにあわず、そのエンジンは水戸の中には残らなかった。

2011-05-29 01:04:19
遠山太郎(TOKYO) @touyama_t

やっと最後に、最も意外であろうことを書く。東湖の『弘道館記述義』に驚くべき援用があるということである。本居宣長の『古事記伝』からの援用、「別天神」(ことあまつかみ)を強調している。その神こそ、宣長が「別」して、創造神として君臨させた神だった。

2011-05-29 01:07:22
遠山太郎(TOKYO) @touyama_t

かつて藤田幽谷が「帝室を尊び、覇府を賤しむ」と言った哲学も、すっかり外部化してしまい、水戸学こそ残ったろうが、いっさいの水戸エネルギーはほぼ消滅してしまったのである。

2011-05-29 01:04:33
遠山太郎(TOKYO) @touyama_t

水戸学とは、やはり「べつ」という天地のためのイデオロギーだったのではないか。それはコシュマンがいうような闇斎流の神儒一致のイデオロギーというよりも、仮に朝方にはそこから出所していたとしても、夕方にはそぞろ、宣長の神と近づいていったものではなかったのか。

2011-05-29 01:07:51
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