《2017年12月10日(日)10時放送 NHK総合 『明日へ つなげよう証言記録 東日本大震災「福島県川内村」』視聴自己ツイートまとめ》

自己ツイートをまとめました。 消極的ではありますが、NHKがようやく、2011年3月12日に、全マスコミが住民を見捨てて、事故原発から遠距離避難していたことを認めました。 また、福島県庁が原発付近自治体と住民に対する連絡義務を怠っていたことも確認できました。
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宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

「テレビ報道で三春町の避難所が映されて『ここが原発に一番近い避難所です』なんていうのが流れていると、本当は川内村の方が近いので『マスコミはなぜ川内村に来ないのか?』と、マスコミが来ない理由を知らないので『川内村は見捨てられたのか』と思った。」富岡町役場職員が語る。

2017-12-10 18:07:44
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

この言葉を放送したという事は「NHKは311直後、川内村を含めて住民が残っている地域を見捨てて、取材もせずに、福島県浜通りから撤退したことを認めた」と思って良いだろう。ちなみに三春町は、福島県郡山市の東側にある、中通りの町。その東の田村市都路は、元は浜通りの村だった。

2017-12-10 18:08:36
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

マスコミも来ない中、住民や避難者の不安を和らげようと、当時の富岡町長と川内村長は、避難所を回った。川内村第6区集会所には、介護が必要な富岡町民が多く避難していて、30畳敷きの集会所に約70人の避難者が横になっていた。12日からの夜に1人、次の夜も1人、死者が出た。

2017-12-10 18:09:22
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

まとめ主注。この避難所での死者の具体的な情報は、私の努力不足だと思うが、これまで知らなかった。おそらく、原発事故による第一次避難所では、他でも同様の事例があった事と推測される。6年以上経過すると、数としか扱われない、死者があちこちに存在したのだ。

2017-12-10 18:09:58
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

川内村長は避難所で死亡者が出たことを知って、「このままだと他の避難所でも死者が出るのではないか?」と思った。他の集会所(避難所)にも同様の(介護が必要な)方がいたから」と語る。

2017-12-10 18:10:46
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

避難所を回る富岡町長と川内村長。富岡町から「2,3日で帰れる」と考えて避難してきた人たちは、やり場のない怒りを富岡町長にぶつけた。その様子を見ていた副町長は「発電所を持ってくるからだ」とか「いつになったら帰れるんだ!」などの色々な罵声が町長に浴びせられるのを聞いた。

2017-12-10 18:11:30
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

そして、川内村の中にあって避難者にも提供できる食糧が、次第に乏しくなっていった。村民の約3倍の避難者に提供し続けることができるほどの余分な食糧はない。川内村が自然豊かだとは言っても、それ程多量の食糧は備蓄されているわけでもないし、JAの保管庫があるわけでもない。

2017-12-10 18:12:00
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

川内村第3区集会所には避難者が1500人。その食糧の準備をする川内村の女性は10人。避難所以外にも避難者がいたらしく、「学校に子どもが10人いる」と聞いた女性は、話してくれた人におにぎりを10個あげた、と語る。「子どもがその人にも数人いたのだろう」と。

2017-12-10 18:12:46
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

川内村の女性は続けて語る「だって、店屋なんかは何にもないべ。買うものって言っても何にもない」(字幕では「店やなんかは」と出たが、抑揚から推測すると「店屋なんかは」が正しいだろう。この番組シリーズは、方言の翻訳が粗雑である点がいつも残念だ)

2017-12-10 18:13:19
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

その女性は続けて言う。「母親だと思われる人が『この女の子のお尻だけ洗わせてください』と4歳くらいの子どもを連れて親子4人で(家に)来た。『お尻だけなんて言わないで、家族みんなで風呂に入りな。シャンプーと石けんはあるから自由に使って』と言った」その後炊き出しに戻ったと。

2017-12-10 18:14:03
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

さらに続けて言う。「その後、何人か(風呂に)入りに来たみたいだよ。私は判らないけど」 他の人が質問する「損得無しで?」 「自分だってやってもらったらありがたいべ」と答える。

2017-12-10 18:14:51
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

そして2011年3月14日11時1分、3号機爆発。富岡町からの避難者で、自家用車を持ってきた人たちがさらに遠くへと、各自の判断で避難を始める。富岡町民には原発労働者の関係者も多く、原発全体、プラントが危険だという情報が口伝えで伝わってきた、という。

2017-12-10 18:15:29
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

富岡町の役場職員でもある保健師は、そのような避難者に「子どもや妊婦を乗せて避難してほしい」と依頼した。「安全神話にどっぷりつかってリスク管理をしていなかった。馬鹿だなあ、と思った。」と語る。川内村住民からも避難する女性たちが出てきた。

2017-12-10 18:16:03
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

川内村役場の職員の若手の中にも「富岡町と一緒にもっと遠くに避難しよう」「若い私達と家族は避難させてほしい」という要望が出てきた。まとめ役の年長の課長は「なんとか、職務命令だから、引き続き対応してください。お願いします」と仕事を続けるように話した。

2017-12-10 18:16:39
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

2011年3月当時は、ちょうど子どもが多く生まれて1から2年後だった。(田舎暮らしの場所として、ある程度の成果が出ていた時期だ)役場職員としては「家族取りますか、仕事取りますか」という状態になった。ある職員はいわき市に家族だけ逃がしたが、いわき市断水のために戻ってきた。

2017-12-10 18:17:10
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

多くの川内村役場職員は、結局家族と避難し、職員数は3分の1になった。依然として村の外から避難に関する新しい情報も指示もなかった。(この時期福島県庁は、既に避難した人への対応で能力の限界を超えていた。さらにこれ以上避難者が増える事は、望ましくないと思っただろう)

2017-12-10 18:17:46
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

今後の方向に迷っていた川内村長は福島県オフサイトセンターに、富岡町長は知り合いの原子力安全・保安院職員に、地震後届いた衛星携帯電話で問い合わせた。どちらからも「事故原発から20㎞以上の場所は避難の必要はない」という答えが返ってきた。

2017-12-10 18:18:23
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

しかしその電話から10時間後、菅直人首相(当時)から「今後の原発の状況を勘案すると20kmから30㎞の範囲は屋内退避をお願いする」という記者会見が行われた。これで、外部からの食糧供給も、村内の食糧配給もできなくなった。

2017-12-10 18:19:26
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

さらに、川内村に避難していた双葉郡警察本部に対して「川俣町に移動せよ」という命令が福島県警本部から届いた、という話を双葉郡警察本部が告げて、村を去っていった。富岡町と川内村役場の職員はそれを知ったけれど、他の住民には告げることができなかった。

2017-12-10 18:20:28
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

富岡町役場職員だった保健師が当時使っていた手帳には「国県は私達を見捨てた」という言葉が記されていた。 いよいよ、川内村と富岡町の役場に、決断が迫られる時が来た。

2017-12-10 18:21:20
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

2011年3月15日午後9時。川内村長は、村内の防災無線を使用して、村民と富岡町からの避難者に告げた。「この度の原発事故に好転の兆しが見えるまで、避難できる人は自主的に避難してください。」番組ではこの放送を避難所で聞いた人達の姿を撮影した動画で伝えていた。

2017-12-10 18:21:54
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

川内村長から、自主避難をするように告げられた避難所の人達は、放送が終わると「9時ですね。解散しましょう」と早速再避難の準備を始める様子だった。この時点では避難先は決まっていなかった。16日、川内村長は全村避難を決意した。

2017-12-10 18:22:38
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

富岡町と川内村からの避難先は、商業見本市やイベントの会場として建設された、郡山市の「ビッグパレット福島」だった。全員の避難が終わったのは、2011年3月16日深夜だった。避難していた役場職員の中には、避難所に再度集まってきた者もいた。村長は職員を温かく受け入れた。

2017-12-10 18:24:07
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

その後、川内村は、自治体全域が避難した中では最も早く、全域での避難を解除した。番組ではその後の話も描いているが、そこは私のまとめでは割愛する。

2017-12-10 18:24:36
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

まとめ主から1 原発などで核事故が起き、放射性物質が外部に漏出したり、事故による放射線被曝が一定距離以上でも観測されたりした場合。自衛隊でも警察でも、核施設の管理運営者も、住民を守るための効果的な手法は持っていない。

2017-12-10 18:25:13