2部 5章 【バニラエッセンス】

入江の魔人シリーズ第17弾
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えみゅう提督 @emyuteitoku

破損して飛び出した装甲のささくれに、愛嬌のある丸っこい文字で日付が書かれたタグが結び付けられている。「提督、ありましたよ。これで間違いないみたいですね」提督は、何も応えない。他に灯りのない小部屋の中、傘状に広がるランタンのベンチレーターが、上に広がる光を抑えつけていた。25

2018-01-10 23:10:49
えみゅう提督 @emyuteitoku

暗い影に隠された提督の口が動いた。「私はアカシとヒュウガの協力の下、一般相対性原理の異常を観測した」「あ、の…提督。突然何を――」「物理法則の不変は打ち破られ、座標系の相違によって既知の法則と異常化した法則が混在している。その代表例が――慣性質量への侵食」26

2018-01-10 23:14:28
えみゅう提督 @emyuteitoku

「それぞれの物体に書き込まれた情報に一致する対象が、物体の動かしにくさの度合いを、変更してしまう物理異常。この異常化法則により、現代の海戦はなりたっている。五月雨君、君が今手にしているその艤装、材質が鉄だとしたら、一トンに近い重量があると思うのだが、重くないのかい?」27

2018-01-10 23:17:34
えみゅう提督 @emyuteitoku

提督に問いかけられた途端、私は手にしている物がひどく悍ましく感じて、突き飛ばすように艤装を投げ出した。鈍い金属音が鼓膜を叩く。「な――何を言っているんですか。私は艦娘ですよ?!」自然と声が上ずった。誤魔化さなければならないのに、何故、何を誤魔化すのかわからない。28

2018-01-10 23:19:56
えみゅう提督 @emyuteitoku

「艦娘なんだから、多少の重量なんてわけないです。みんな力持ちです」「軍人だからね。試験を受けた上での就役だ。けれど、君はいつも輸送任務の時、百キロ以上の荷物を軽々運んでいたね」「だから力持ちなんですよ!」声を荒げてしまった。当たり前の事なのに、何故、私は焦っているんだろう。29

2018-01-10 23:22:24
えみゅう提督 @emyuteitoku

提督は身じろぎ一つなく、まるで電信柱のように固く姿勢を正している。息をしているのかもわからないほどなのに、滑らかに声が流れ出る。「私がもっと若い頃、後に深海棲艦と呼称される金属外皮を持つ生命体が国を襲った。私の大隊は、おそらく世界で最初にその生物の撃破に成功した」30

2018-01-10 23:25:35
えみゅう提督 @emyuteitoku

「鉄とさほど比重が変わらない金属外皮は、元の持ち主の細胞の付着を条件に、水に対し大きな浮力を得る事を確認した。そうして生まれたのが、海上歩兵だ」「今は艦娘の話しをしているんです!海上歩兵さん達は、今は関係ありません!」「いや、あるよ。海上歩兵の戦術的有用性は確かだった」31

2018-01-10 23:26:21
えみゅう提督 @emyuteitoku

「国は深海棲艦を調査し、金属外皮――艤装と生体のゲノム情報のリンクを観測した。その時はただそういう事が起きる、と確認できただけだがね。そして、戦力拡充のために、海軍は調査により得たゲノム情報を人間に埋め込んだ。特定の艤装と、特定の人間を連結させ、深海棲艦と同じ法則破壊を実現した」32

2018-01-10 23:30:12
えみゅう提督 @emyuteitoku

「それが艦娘だ」「そんな…そんな昔の事言われても、わかんないですよ」私は自分の目の前にあるマネキンを人間だと思いたい、その一心で大袈裟に身振りを加えて相槌を打ったが、提督は無機質に姿勢を変えない。「私はさらなる究明のため、泊地棲姫が保有していた技術を用い対照実験を行った」33

2018-01-10 23:32:22
えみゅう提督 @emyuteitoku

「この国は大したものだよ。アカシが持ち出した海軍の機密は、深海棲艦が引き起こす物理異常を事細かに把握していた。驚くべきことだ。敵を利用し、艦名という管理方法で装備適合の手順を簡略化し、艦娘という兵士を生み出し、本来女性では、人間では運用不可能な装備を前線に配置した」34

2018-01-10 23:35:33
えみゅう提督 @emyuteitoku

「なあ、五月雨君。私は対照実験の最中に、君の艤装に異常を見つけたんだ」「整備不良、とか、ですか?」ランタンの光が微かに揺れる。影の中で提督が首を横に振ったのだ。「君の艤装には異常がない、異常なしという看過できない異常だ、正確な個所は主砲と魚雷発射管。わかるかい?」35

2018-01-10 23:37:06
えみゅう提督 @emyuteitoku

「12.7センチ連装主砲十六キロ二基、三連装魚雷発射管61センチ魚雷装填時七十キロ」提督は出撃ドックに保管されている私の装備の重さをそらんじてみせた。「君は、合計重量約百キロの艤装を装備して海を走り、輸送物資の搬入を手伝っていた。力持ちでは、すませられないよね」36

2018-01-10 23:38:11
えみゅう提督 @emyuteitoku

提督が話すたびに、心臓から血が抜けていく「それにね、五月雨君。私には、そも、それが艤装には見えないんだ。まして艦娘の装備か、深海棲艦の装備かの区別も付かない。私の目には、穴ぼこだらけの鉄の塊にしか、見えないんだよ。君は、何故それを艤装だと判断したんだい?」37

2018-01-10 23:38:59
えみゅう提督 @emyuteitoku

心臓の中が空洞になる、体がからっぽになる――そもそも私の体の中には何が流れている?「そうか、わかった。ならもっと簡単な質問にしよう」ランタンの光の届かない暗闇の中に、ぽかりと黒い穴があく。それは、黒く粘りつく視線がどろどろと溢れでる二つの眼球だった。「君は誰だ?」38

2018-01-10 23:40:14
えみゅう提督 @emyuteitoku

私は悍ましい地下室から抜け出し、共同浴場の脱衣場の洗面台の前にいた。提督の目から流れ出ていた這いまわり増殖しながら広がる粘菌じみた恐怖の視線が、体にまとわりついているような気がして、水が流れる場所に来たかったからだ。言葉にし難い不安が、まだ心臓に絡みついている。40

2018-01-10 23:42:18
えみゅう提督 @emyuteitoku

蛇口から吐き出される、天井の蛍光灯の明かりを反射する水を両手で掬い、顔に叩きつけた。体を隅まで洗おうかとも思ったが、黒い視線はすでに皮膚を侵蝕し、体組織を潜り抜け、不快な触手となり私の心頭を締め上げている。洗っても間に合わないのなら、この服を体から放したくはない。41

2018-01-10 23:45:41
えみゅう提督 @emyuteitoku

白露型駆逐艦六番艦に与えられる正装、【五月雨】の制服、今はこれを身に付けたままでいたい。「…艦娘」それは、深海棲艦に対抗するために海に浮かべられた命だ。その呼び方は立場で変わる、薬か毒か、発酵か腐敗か、全ては属する集合体が決める。話す言葉、見た目の良し悪し――「見た目…」42

2018-01-10 23:47:38
えみゅう提督 @emyuteitoku

私は目を閉じて、そのまま恐る恐る顔を上げた。今、私の顔の前には湿気に蝕まれ縁が黒く滲んだ洗面台の鏡があるはずだ。目を開ければ、当たり前のように自分の顔が映る。こんな事さえ不安になる。「私は…五月雨、艦娘」もう一度それを確かめるために、私はそっと、瞼を上げた。43

2018-01-10 23:49:37
えみゅう提督 @emyuteitoku

「あ――」鏡の向こうに居たのは、青白い肌に湿り気のある髪を這わせた赤い目の少女。私が鏡に触れると、少女も同じ場所に指を置く。私が頬に触れれば同じように頬に手を当てる。「――あはは…そうだよね、うん」何も変わったところはない、そう、いつも通りの私の顔だ。不安に思う事は無い。44

2018-01-10 23:51:37
えみゅう提督 @emyuteitoku

自分の顔を見て心のわだかまりがすっと晴れていく。提督からの問い、君は誰だ?答えは決まっている。「私はサミダレ。…よし」「よう、自己紹介の練習か?」「ひゃあぅ!」蛇を見た狐のように体が跳ね上がる。すぐ隣に、いつの間にかチクマが立っていた。「おお、ごめんな、驚かせちまった」45

2018-01-10 23:52:54
えみゅう提督 @emyuteitoku

チクマは両手を上げて降参ポーズを取る。「あー、ほら、思い詰めている感じだったからさ、なんかあったかと思ってな」「いえ、大したことはないんです」私はチクマに地下室での出来事をかいつまんで伝えた。提督からの呼び出し、隠されていた扉、その先にあった破砕した艤装、君は誰だと問われた事。46

2018-01-10 23:54:21
えみゅう提督 @emyuteitoku

チクマは軽く頷きながら、私の話しを聴いてくれた。しかし、何かを探るように視線を振る彼女の仕草を見て不安に駆られ、艤装の重量については黙っておいた。「というわけで、まあ…何か不安になっちゃって、鏡を見ていたんです。鏡だから、当然自分の顔が映っただけなんですけどね」47

2018-01-10 23:55:40
えみゅう提督 @emyuteitoku

「提督も変な事言いますよね!変わった人ですけど、私が誰かだなんて。自分の艦隊なのに、私がサミダレかどうか確認って、どうしたんでしょうね」「…なあ、五月雨ちゃん」チクマは膝を曲げて私に目線を合わせる。「その壊れた艤装ってのは、丁度、こんな大きさじゃなかったか?」48

2018-01-10 23:57:53
えみゅう提督 @emyuteitoku

チクマは両手で私の体を覆い隠す洋梨型のシルエットをなぞる。「そんでよ、ここら辺、下あたりに持ち手があって…バックラーみたいな感じで構えるんだ」なぜ彼女は、そこまで知っているのか。「そんで!もしかしてだけどよ!その損傷は巡洋艦クラスの8インチ砲を受けた傷じゃなかったか?」49

2018-01-11 00:00:39