2部 5章 【バニラエッセンス】

入江の魔人シリーズ第17弾
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えみゅう提督 @emyuteitoku

幌筵島にようやく乾いた雪が降らなくなった。秋口と似た暖かさの、冬と春の境目の季節だ。私が江見提督の元で働き始めた頃と同じくらいの気温になった。秋と違うのは、まだ溶けない雪の白が視界に映る事、そして、泊地に深海棲艦が増えた事。私は、まだついていけない。1

2018-01-10 22:16:47
えみゅう提督 @emyuteitoku

「五月雨ちゃん、なーにしてんの」埠頭で海を見ていた私に黒蘭の声がかかる。「ん、ちょっと考え事を――わっ!」違った、背後にいたのは黒蘭ではなく、割れた仮面で半面を隠した軽巡ヘ級――センダイだった。私が大袈裟に飛びのいたせいで、センダイも同じく驚いた顔を見せた。2

2018-01-10 22:17:40
えみゅう提督 @emyuteitoku

「わっト!スんません!声真似ガどこまでできルカ試せ、ってイわれて…サミダレさんは先輩なのに、申し訳ないっス」センダイの仮面の下には骨ごと削がれた左頬がある。剥き出しの奥歯から空気が漏れるせいで、彼女の声は軋みのようなノイズが混じっていた。耳心地は余りよくない。3

2018-01-10 22:18:54
えみゅう提督 @emyuteitoku

本人もひどく喋りづらそうに視線を泳がすので、なるべくセンダイが話さずに済むように、私は積極的に口を動かす。「声真似の試験、でしたよね。そっくりでした。すっかり騙されちゃいましたね。しっかり、真似できるってことは、もうこの泊地に慣れたんですよね?よかったです」4

2018-01-10 22:20:15
えみゅう提督 @emyuteitoku

センダイは照れ臭そうに肩をすぼめた。「恐縮でス。ここは強イ方ばかリなんで、私も早くお役に立てるよう頑張りまスね」本当は、この泊地に慣れていないのは私の方なのに。私が押し黙っているとセンダイがぱっと指を立てた。「ソうだ、提督から言伝っす。本拠点の地下倉庫ニ来てくれ、トノこと」5

2018-01-10 22:21:38
えみゅう提督 @emyuteitoku

「地下倉庫ですか?何かあったかな…」私が泊地の地下に行ったのは、チクマが悪夢の爆弾を使った時が最後だ。使えそうな物は提督が着任した時にほとんど引っ張り出していて、倉庫の中には特に何も残っていない。「何でしょうか。よくわかりませんが承知しました。言伝ありがとうございます」6

2018-01-10 22:23:24
えみゅう提督 @emyuteitoku

私はセンダイに頭を下げ、首を左右にひねりながら地下倉庫へ向かった。コツコツと靴底で廊下を叩きながら、何か出てこないかと頭を振っても、やはり思い当たるような用事はない。しいていえば、提督はおじさんとおじいさんの境目の年齢の癖に、性豪であるという点が思い浮かぶが…7

2018-01-10 22:26:03
えみゅう提督 @emyuteitoku

この泊地で誰も寄り付かない場所に呼び出し…「ま、それは大丈夫か。見境はしっかりしている人だし」提督は自分から女性を誘わない。あくまで言い寄られたら相手をする据え膳派、だとか笑いながら言っていた。だとすれば、何故私を地下倉庫に?疑問はまた同じ問いに戻ってしまった。8

2018-01-10 22:27:55
えみゅう提督 @emyuteitoku

「何かを運び込むなら倉庫前でいいだろうし、何か見つけて運び出すならヒュウガさんに頼むだろうし…」私は予測すら立てられないまま、地下への重い鉄扉を肩で押し開け、倉庫へ降りる階段を覗き込む。両端が黒ずんだ蛍光灯がチカチカと目障りな明滅を繰り返し、鼠色の壁を照らしていた。9

2018-01-10 22:29:41
えみゅう提督 @emyuteitoku

私はコンコンと小気味のいい音を立て鉄の階段を降りた。地下の篭った空気が鼻腔に溜まる。嫌いではないが、好んで楽しむような空気ではない。早く用が終わるように、私はキッと敬礼する。提督は蛍光灯ランタンを片手に、組み上げたばかりのマネキンのように姿勢正しく立っていた。10

2018-01-10 22:32:06
えみゅう提督 @emyuteitoku

「五月雨、ただいま到着しました」「やあやあ早かったね。すまないね、呼び出したのにここじゃお茶の一杯も出せないよ」「それで要件はなんでしょうか?」提督の気遣いよりも、私は呼び出された理由を早く知りたかった。提督のことは嫌いではない、けれど長く一緒には居たくない。11

2018-01-10 22:33:50
えみゅう提督 @emyuteitoku

提督は急かせばそれに応じてくれる。今回も例外ではなかった。「じゃ、その要件なんだけど、最近艦隊戦力が充実して時間ができたから、改めて搬入出記録を洗ってみたんだ。するとね、前任が残した記録に、一つだけ地下倉庫入れっぱなしで、本部にも報告されていない荷物があったんだ」12

2018-01-10 22:35:47
えみゅう提督 @emyuteitoku

幌筵の前任、私を助けてくれた人、生真面目で厳しい事ばかり言う行動で示してくれた人。想ったことは全部やらないと気が済まなかった人が、報告ミスなんてするだろうか?私と一緒に提督も首を傾げて思案する。「書類一枚を紛失して、というなら納得できるんだが、一項目一個だけというのがね」13

2018-01-10 22:38:40
えみゅう提督 @emyuteitoku

「前任と会ったことがあるのは私と五月雨だけだろう?私よりも長くこの泊地にいる君なら、と思ったんだが…どうやらその様子だと心当たりはないようだね」私は正直に頷く。「はい、江見提督に管理を引き継ぐ時の管財にも立ち会いましたが、特に変わったことはありませんでした」14

2018-01-10 22:41:29
えみゅう提督 @emyuteitoku

「そっか」提督は短く答えて、手に下げたランタンを揺すった。天井の蛍光灯がぱしぱしと灯りを絶やすたびに、揺れるランタンの漂白された明かりが地下倉庫の壁と床を照らす。規則的に角度を変える明かりが、コンクリートの床に微かな陰影を映し出す。――床に、何かを引きずった線が走っていた。15

2018-01-10 22:43:35
えみゅう提督 @emyuteitoku

私は自然とその線を目で追った。線の先にあったのは、三段に積み重ねられた、黒かびの斑点がついた木箱。「五月雨君も気付いたかい?」提督が私の肩に手を置いた。私は咄嗟に提督の手を振り払う。「あ…ごめんなさい」「いや構わないよ」提督は弾かれた手を上げたままくるりと木箱に体を向ける。16

2018-01-10 22:46:27
えみゅう提督 @emyuteitoku

「おかしいと思わないかい?」バレエか、タップか、提督は軽やかにコンクリートの床を靴底で叩きながら、床の微かなへこみの先にある木箱に手をついた。「いくら重い木箱を引きずっても、こんなきれいにコンクリートは削れない。それに…」提督は積みあがった上の箱に両手で抱え上げた。17

2018-01-10 22:49:49
えみゅう提督 @emyuteitoku

「この箱、なんだけ、ど――おおっとっと!!」「危ない!」姿勢を崩した提督に、私は咄嗟に駆け寄った。しかし、提督は、大きく体を逸らしたまま、木箱をポンと上に投げてみせた。「何も入っていないんだ。搬入記録にもない、空箱。すまないね、驚かせてしまって。重そうに見えた?昔の宴会芸だ」18

2018-01-10 22:51:21
えみゅう提督 @emyuteitoku

提督の悪い冗談に、私は特大のため息を吐きつけとっておきの呆れ顔を見せてやりたかった。だが、私の意識は、木箱が隠していた壁に釘付けにされた。「これ、扉、ですか」「いやはや、意見が一致したね。私にもそう見える」提督は残りの空の木箱を除け、隠されていた倉庫の一角を暴いた。19

2018-01-10 22:53:29
えみゅう提督 @emyuteitoku

木箱からうつったカビの粉が付着した赤い扉。悪寒を煽る斑点状に錆びた回転取手の金具が目に入った。取手の付近に、指の跡が残っている。私は誰かが残した指の跡に自分の指を合わせる――私は、その誰かを、知っている。「提督…?」この泊地にいた提督。私を助けてくれた提督。20

2018-01-10 22:56:16
えみゅう提督 @emyuteitoku

決して優しくはなかった、けれどひどい事はしなかった。何より、××××の私を、助けて、くれた――××××?「私は…」かしゃん、と取手が回る音が私の意識を引き戻す。提督が取手に指をかけた。「開けるよ。少し下がって」赤い扉が微かに塵を撒き上げながら開かれる。21

2018-01-10 22:59:23
えみゅう提督 @emyuteitoku

扉の中の小部屋に、提督がランタンをかざす。「秘密の埋蔵金はないようだね」「そんなのがあったら、脱税になっちゃいますね」私は適当な冗談を言って気持ちを落ち着かせようとした。「それはごもっともだ。さて…書類の謎の答えは、あるようだね」小部屋の奥には、大破した艤装が横たえられていた。22

2018-01-10 23:03:56
えみゅう提督 @emyuteitoku

「艤装が、なんでこんなところに。これが搬出されていない荷物の正体ですか?」私からの問いに、提督は顎に手を当てて考え込む。「んー、断定はできないかな。そうだなぁ……、これが軍需品として倉庫に保管されているなら、印か何かがあるんじゃないかな?五月雨、探してみてくれ」23

2018-01-10 23:06:07
えみゅう提督 @emyuteitoku

「これ、勝手に触ってもいいんでしょうか?」「いいよ。今は、私が幌筵の提督だからね」これは提督の指示、そう自分に言い聞かせて暗い小部屋を進み、私は塵を被った艤装を手に取った。一畳に満たないが、不思議と私の体を覆い隠す大きさだ。私は損傷の激しい艤装を隅々まで観察する。「…あった」24

2018-01-10 23:08:42