優れたファンタジーとして読む『ジュエルペット てぃんくる☆』の素晴らしさ
思いやり、わがまま、知性、リーダーシップ、高慢などの諸機能をそれぞれ肯定して助けるジュエルペットがいて、最後に統合されるのがアルマの弱い心(クライシスを迎えているシャドウにも「存在を否定しないジュエルペット」が側にいるのが泣ける)
2011-03-31 22:51:24祐馬くんとの恋愛は、リアルの人間関係であると同時に「心の中の男性原理」との邂逅のようにも映る。ジュエリーナ様とフェアリーナ様がグレートマザーの二面性で、教師達は隠者。あ、ジュディという超自我もいた…
2011-03-31 22:54:42ファンタジーとしてものすごく整然と作りこまれてるんですよね。それでいて、まったく堅苦しくなく「ファシーグッズアニメ」として成立してるバランス感に感嘆します
2011-03-31 22:55:58ちなみに「物語を精神世界に置き換えて読める」というのは「精神世界として読むことにのみ意味がある」ということではないし、そもそも人間は「世界での体験(マクロ)を精神的体験(ミクロ)に置き換えて認識する」という機能を持っていて、どんな種類の物語でも夢分析治療のような効果はある
2011-03-31 23:00:38例えば地震が起こったときに「ちょうど自分が絶望していたから、その精神的危機を象徴するように地震が起きたのではないか」っていうシンクロニシティを感じる人もいると思う。このシンクロニシティを利用するのがユング派の物語療法というものですね(スピリチュアルが絡むと悪用もできますが…)
2011-03-31 23:04:11実はそこまで会話してるわけでもないあかりが身を呈してアルマを救おうとしたり、アルマもアルマで無条件にあかりを失いたくないと考えるのは、同じ人間の意識と無意識として描かれてきたためで、他者ではなく一蓮托生だから、とか
2011-03-31 23:13:50ちなみに「世界の体験を精神世界のように置き換える」というマクロコスモス→ミクロコスモスの流れがありうるなら、その逆もありうる。つまり「博愛や友情のドラマを借りて精神世界における心の発達を描いている」という側面から、「精神世界のドラマから博愛や友情を学び取る」という側面も発掘できる
2011-03-31 23:19:00なので、「物語→精神世界の置き換え」がたやすいような世界が構築されているのが、ひとつの優れた幻想文学の在り方だと考えています。反面、そうしたファンタジーを「リアリズムの物語」のように受け取るのは注意の喚起が必要で、以前も書きましたが「そんなの奇跡だよ」と言い始めたらいかんのですね
2011-03-31 23:26:07確かにあかりちゃんはマジ天使ですが、それは「自分の弱い心」に対して発揮される思いやりや器量であって、「自分以外の他人」に対して何ができるかはレアレア界で試されるべき問題。沙羅やアルマに対してできたことが他人にもできるかどうかは別。でも現実に応用ならできるかも……ということてすね
2011-03-31 23:34:29ジュエリーナ「アルマ、あなたはいま哀しみの底にいる。でもあなたはいつか素晴らしい魔法力をもったレアレアの女の子に出会います。その子があなたの運命を変えるでしょう」(♯24)
2011-03-31 23:35:29@izumino まあ「家族に誕生日のお祝いすっぽかされたみたいだけど自分は家族の誕生日お祝いしよう」(第17話)とか考えるくらいにはレアレアでも良い子ですよねあかりちゃん>「自分以外の他人」に対して何ができるか
2011-03-31 23:39:46.@miyamo_7 他の生徒からして、「半分ファンタジーな友達だけど本当はリアルの別の人間」っていう二重の存在になってるあたりが、単純な「リアル/アンリアル」の二極化をしないで済むようにもなってますよね。ミリアが来日するエピソードとかで「おおっ」とか思うw
2011-03-31 23:44:44と、なんか心理学者みたいなこと書いてきましたが、主観的にいえばアルマ編のお話(無意識の大きな領域が絶望することによる人格の破滅)は自分の精神的クライシスとかなり重なるところがあって、実際に「療法」として非常に助けられたと感じていたのですね。こうした物語の貴重さを噛み締めてる所です
2011-03-31 23:52:00あとメモすべきこととしては……。たまたま「ジュエル」ペットという商品だったからとはいえ、童話の本質である「宝石や鉱物などの硬質なものを好む」という感覚とよく合致してて、「ジュエルランドにはレアレア界のような辛さや苦しみが存在しない」という純陽の世界観には納得がいくという話と……
2011-04-01 00:10:15ちょっと人と話してみてわかったけど、自分が好きになるアニメの基準は「自分が子供のころ or 学生の頃に観ていたらドハマりしていたであろう作品」っていう基準になっている気がした。良くも悪くもありそうな基準…。スレた客になりたくないという意味では理想だけど
2011-04-03 23:34:39あと、ぼくが「奇をてらわない、普通の普遍的な作品」が好きな理由。普遍的というのは、みんな「最小公約数だから薄い」という意味でとらえがちですが、宮崎駿が『雪の女王』のゲルダを「誰でも必ず持っている心」と称していたような、「誰でも持っている心」を描いたものが好きだということですね
2011-04-03 23:38:06単なる趣味の公約数だと薄まる一方(広さと濃さが反比例する)でしょうが、「誰でも持っている心」を追求するというのは「本質」に触れる作業なので、掘れば掘るほど深くて普遍的になっていくんですね(広さと濃さが比例する)
2011-04-03 23:40:47まぁそんなうまい話なんてそうそうないんですが、だからこそそういうのが好きだなあ、というわけです。こういう嗜好は、老子のような「広くて深い」思想が好きなこととも関連してるかもしれませんね
2011-04-03 23:42:32「子供のころに観たかった」とか「子供に見せたい(実際に見せる相手はいませんが)」とか思うのは、ぼくにとっての子供が「後天的な影響を受ける前の人間の本質に近い存在」だと考えているからでしょうね
2011-04-03 23:46:07泉信行さんのジュエルペットてぃんくる☆分析が心を直撃してます☆RT @izumino アルマにとってのフェアリーナ様が象徴するあかりの心 - ピアノ・ファイア http://htn.to/Be43rB
2011-04-26 09:25:09