推しの天皇三人について論述してみた→ 一人目:淳仁天皇、二人目:仲恭天皇

三人目は後日。
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Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

淳仁天皇を廃位した孝謙太上天皇は自ら重祚して称徳天皇となった。称徳は皇太子を定めず、道鏡を重用して専制政治を行う。それに不満を持つ者の中には淡路廃帝の復位を目指す勢力もあった。天平神護元年(765年)2月、称徳は淡路守佐伯助に対して、淡路国の厳重な監視を命じた。

2018-02-27 18:55:55
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

そして同年10月、称徳は紀伊国行幸のために平城京を出発した。途中、草壁皇子の陵墓を参拝して草壁皇統の顕彰を行い、10月18日、紀伊国玉津嶋に至った。玉津嶋は現在の和歌山市和歌浦で、淡路島は紀伊水道を隔ててすぐ近くにある。ここで一つの事件が起きる。淡路廃帝が死去したのである。

2018-02-27 18:55:55
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

続日本紀の天平神護元年10月22日条には次のように記されている。「淡路公が憂憤に耐えず、幽閉先の住居の垣根を越えて脱走した。淡路守佐伯助と掾の高屋並木らが兵を率いて淡路公の逃亡を防いだ。公は住居に連れ戻され、翌日薨去した」と。

2018-02-27 18:55:55
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

淡路廃帝の死が自殺なのか、憤死なのか、それとも称徳天皇の意向を受けた佐伯助らによる暗殺なのかは知る由もない。ただ、淡路島の対岸にある紀伊に称徳が兵を率いて行幸してきたことが廃帝に精神的な圧迫を与えて死に至らしめたということは言えるのではあるまいか。

2018-02-27 18:55:56
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

天平神護元年10月23日、淡路廃帝死去。時に33歳。淡路廃帝は罪人として死去したため、葬礼の記録は残っていない。彼の墓所が「山陵」と追尊されたのは、光仁天皇の時代の宝亀9年(778年)のことである。

2018-02-27 18:55:56
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

廃帝が正式に歴代天皇の列に復したのは明治3年(1870年)7月24日。このとき、明治天皇から「淳仁天皇」の諡号を贈られた。

2018-02-27 18:55:56
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

淳仁天皇。図らずも皇位に即くという幸運に恵まれるも、藤原仲麻呂と孝謙太上天皇の対立に翻弄され、最終的には廃位という屈辱を味わい不可解な死を遂げた。権力闘争に巻き込まれ、敗者となった悲しむべき天皇の一人である。

2018-02-27 18:55:56
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

仲恭天皇(第85代天皇 生没:1218年~1234年 在位:1221年) 諱は懐成。順徳天皇の第4皇子。母は中宮九条立子(摂政太政大臣九条良経の娘)。建保6年(1218年)10月10日誕生。翌月26日、僅か生後1か月で立太子。

2018-02-27 19:01:14
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

順徳天皇は後鳥羽上皇(順徳天皇の父で仲恭天皇の祖父)が進める鎌倉幕府の討幕計画に熱心に関わり、幕府追討に備えて譲位したため、承久3年(1221年)4月22日、数え4歳で践祚した。摂政となるべき外祖父九条良経は既に没していたため、伯父の左大臣九条道家が摂政となった。

2018-02-27 19:01:14
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

同年5月14日、後鳥羽上皇が挙兵し、承久の乱が勃発した。この戦乱は鎌倉幕府の圧勝に終わり、6月14日、幕府軍が入京して戦後処理を行った。

2018-02-27 19:01:14
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

首謀者である後鳥羽上皇と順徳上皇はそれぞれ隠岐島と佐渡島に配流され、順徳の兄の土御門上皇は承久の乱には反対していたものの、自ら望んで土佐国(後に阿波国)に配流された。

2018-02-27 19:01:14
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

そして仲恭天皇は、同年7月9日、鎌倉幕府の沙汰によって廃位された。在位は僅か80日ほどで、歴代天皇のうち最も在位期間が短い天皇となった。即位礼や大嘗祭を挙げることなく譲位したため、「半帝」「後廃帝」「九条廃帝」などと呼ばれる。

2018-02-27 19:01:15
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

廃帝は譲位後すぐに、九条道家(仲恭天皇の廃位によって摂政を罷免された)の邸宅に移り、10月には母の立子とともに西七条御所に移る。それから亡くなるまで、廃帝は太上天皇の尊号を受けることもなく、幽閉・蟄居の生活を送る。

2018-02-27 19:01:15
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

文暦元年(1234年)5月20日、廃帝は九条殿において数え17歳で死去する。この年、廃帝は女官との間に唯一子・義子内親王を儲けていた。九条廃帝の葬地は記録に残っていない。

2018-02-27 19:01:15
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

九条廃帝が正式に歴代天皇の列に加えられ、「仲恭天皇」の諡号を贈られたのは、淳仁天皇と同じく明治3年(1870年)7月24日のことであった。明治22年(1889年)、仲恭天皇崩御の地に因んで、九条通り東郊の高所(現在の京都市伏見区深草本寺山町)に小さな円丘を築いて仲恭天皇陵とした。

2018-02-27 19:01:16
Kaiser Matthius @Ryu_Yas0417

物心つかぬ時に皇位に即けられ、そして皇位から降ろされた仲恭天皇。その短い人生の大部分は幽閉・蟄居の日々であった。彼もまた権力闘争の犠牲となった天皇である。敗者の烙印を押され、世間から忘れ去られた彼が、何を思ってその短い生涯を送ったのか。史料は語ることはない。だからこそ興味深い。

2018-02-27 19:01:16