古代の女帝持統天皇と大津皇子の事件そして彼女の即位を巡る素人の個人的な考察等
- tenkaichu_
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歴史上の偉人をキャラクター化して妄想して遊ぶ歴史創作をあまり人様の目に止まらない程度にまったりやりたいんだけど、持統天皇周りに定着してる説について見直すべきなのでは?と提唱したい気持ちもだいぶある
2016-02-24 20:44:43創作については自由であるべきだと思うし、持統天皇や藤原不比等が悪役の創作があってもそれ自体は別にいいと思っています でもそれをそのまま史実扱いはやめて欲しいな…というのが自分の正直な本音です
2016-02-24 20:48:47影響力の高い商業誌なんかはやや辛口になってしまう時もありますが(正直すみません…)持統陰謀論も含めて創作物は自由であるべきだと思うよ…
2016-03-03 17:27:47今回の考察はあくまでただの素人の考察です。
ここに書いてある事が正しいとは限りませんが、どうも一般世間で定着している史実が正しいと思えないのです。
(※個人でやっている創作を潰す意図はありません。)
持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。
大津皇子(おおつのみこ、663年(天智天皇2年) - 686年10月25日(朱鳥元年10月3日))は、飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。同母姉に大来皇女。妃は天智天皇皇女の山辺皇女。
大津皇子の変
【大津皇子の変とは】
686年天武天皇が亡くなった直後に大津皇子が朝廷に対し謀反を起こそうとして捕らえられた事件。
川島皇子の密告によって発覚したとされていて、
この事件の結果、大津皇子は死に妃の山辺皇女も殉死したと伝えられる。
事件の経緯を詳しく記した文献がなく、実際にどういう経緯で起こった事件だったのか全く不明。
事件当時、持統天皇が政務をとっていたらしい事と、
彼女が自分の子である草壁皇子を皇位につけようとしたと憶測されている事から
彼女が仕組んで大津皇子を殺したようによく解釈されているのだが…。
持統の無実の罪で大津を陥れた〜はその可能性「も」あるってだけで 実際にそうだったと確定じゃないんだよ… 大津が本当に謀反起こそうとしたとか、そもそも大津が謀反起こそうとした相手は持統じゃなかった(本当に権力を握ってたのは別の人間)とか別の可能性がもっと考えられてもいいと思うんだ…
2016-02-15 17:16:33@tosただ事件としての重要さ・事件の曖昧さ・負の感情 持統の大津を無実の罪で殺害したという説は、証拠は何一つ残されていませんが、 流言として広まるには非常に条件バッチリです。
2016-05-17 23:27:16@tos大津皇子の母親は彼が幼い頃に亡くなっていて、持統とはちょうど継子と継母の関係 シンデレラのおとぎ話の設定にもあるように、大津の方が可哀想(と思い込みたくなる)ポジションにいます。
2016-07-04 22:49:25持統朝以前の歴史を記している書記は改竄の跡が酷くて、その記述を疑いだすとキリがなくて、現代我々があたりまえだと思っている史実も事実から捻じ曲げて記載されたものである可能性があると思うの
2016-06-30 22:37:06で、今現代その史実を解釈する側がどういう価値観を持ってるか… ものすごーく引いたところから持統大津と持統関連の史実解釈を眺めた時、千年以上前に死んだ女性を標的にして、彼女を通じて熾烈な女性叩きを繰り広げているのでは…?という気がしてくるのです
2016-06-30 22:44:07大津皇子謀反事件は真相不明だよ??? 持統天皇が彼を粛清した〜はあくまで可能性の一つであって確実じゃないからね??? 草壁皇子もしくは高市皇子が彼を処罰した可能性もあるんだよ???
2016-02-11 21:12:34調べてみると、古代は根拠が薄いのにさも真実であるかのように定着してる話がいっぱいあって、持統大津の話もそれに該当すると思っています!
2016-02-24 21:05:12大津皇子の変について引き続き考える
大津を処罰したのは本当に持統一人しか考えられないのか?
草壁皇子(くさかべのみこ(おうじ)、天智天皇元年(662年) - 持統天皇3年4月13日(689年5月7日)は、飛鳥時代の皇族。天武天皇と皇后・鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の皇子。妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である阿陪皇女(後の元明天皇)。元正天皇・吉備内親王・武天皇の父。
高市皇子(たけちのみこ・たけちのおうじ、654年(白雉5年)?[1] - 696年8月13日(持統天皇10年7月10日))は、日本の飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇子(長男)、母は尼子娘。壬申の乱では近江大津京を脱出して父に合流し、美濃国不破で軍事の全権を委ねられ活躍した。持統天皇の即位後は太政大臣になり、以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった。