「華族令嬢たちの大正・昭和」から考える戦前戦後の上流階級女性の生き方について(仮題)

読みながら感想を呟いていくスタイル。本文は終了。 過去に読んだ本はこちら→ https://togetter.com/li/1144604
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波島想太 @ele_cat_namy

【本棚登録】『華族令嬢たちの大正・昭和』 booklog.jp/item/1/4642080… #booklog

2018-03-09 10:52:02
波島想太 @ele_cat_namy

本書は大正期に華族に生まれた京極典子、寺島雅子、勝田美智子、上杉敏子からのインタビューを中心にまとめた、戦前戦後の、華族全盛期から華族身分の廃止までの激動の時代の記録である。 上杉敏子は大正七年、徳川宗家に生まれ、母正子は最後の薩摩藩主島津忠義の娘であった。

2018-03-09 11:03:13
波島想太 @ele_cat_namy

母正子が生まれた薩摩は男尊女卑の強い土地で、感情を出すな、大声を出すな、口を開けて笑うなと厳しくしつけられてきた。徳川家に嫁いでからも姑が健在で取り仕切っていたから、何の発言件もなかった。子育てもすべて祖歩が見ていた。夫徳川家正は外交官であったが、外交官の妻には向かなかった。

2018-03-09 11:07:08
波島想太 @ele_cat_namy

夫の海外赴任に一度ついていったがつとまらず、結局東京に帰されて、ずっと孤独でかわいそうだった、と娘の敏子は回想する。両親の結婚は天璋院(篤姫=母方の祖父島津忠義の妹であり、父方の曾祖父の祖父家定の妻でもある)のたっての希望であり、正子が生まれる前から決まっていたのだという。

2018-03-09 11:18:01
波島想太 @ele_cat_namy

寺島雅子は熊本藩主細川家の生まれであるが、祖父護立は四男ということもあり比較的気ままな立場で奔放に成長したとされるが、兄たちが相次いで他界し家を継ぐことになった。正子の母は池田詮政と島津充子の間に生まれ、上杉敏子とは従姉妹の関係に当たる。

2018-03-09 11:25:55
波島想太 @ele_cat_namy

京極典子の父高頼は多度津の京極高典の本妻の子であったが、高典の晩年にやっとできた子で、その時には側室との間に生まれた異母兄が家督を継いでいたため、跡取りのなかった丹後峰山の京極家へ養子に出された。義理の父母に猫可愛がられ、歌や鼓といった趣味の世界に生きていた。

2018-03-09 11:35:30
波島想太 @ele_cat_namy

母津井は華族ではなく、医師の娘だった。父高頼は家の都合よりも自分の好きな人を妻に迎えたいというタイプの人間だったという。 以上の敏子、正子、典子の三人はいわゆる大名華族であるが、次の勝田美智子は勲功華族であった。幕末から兵学者として仕え、維新後は陸軍少将、議員などをつとめた。

2018-03-09 11:39:44
波島想太 @ele_cat_namy

美智子の父熊雄は西園寺公望の秘書で、たぐいまれなる情報収集力と、嘘をつかない誠実さを高く買われていた。戦前は英米の大使とも交流があり、そのため戦中にはよく憲兵に睨まれ、度重なる捜索などで体調を壊し、戦後すぐに他界した。

2018-03-09 11:47:12
波島想太 @ele_cat_namy

かように華族は政治や芸能などの世界で華々しく活躍するものが多く、彼女たちはそうした環境で、自らも多くの交流を持ちながら育った。 そんな彼女たちの生きた華族令嬢の世界を、本書から適宜抜粋しながら追っていく。

2018-03-09 11:49:17
波島想太 @ele_cat_namy

「華族令嬢たちの大正・昭和」から考える戦前戦後の上流階級女性の生き方について(仮題) togetter.com/li/1206722 ということで続きはまたあとで。

2018-03-09 11:53:17
波島想太 @ele_cat_namy

全部取り上げてはきりがないので、以後、華族の女性としてのエピソードを中心に拾っていく。

2018-03-09 15:51:47
波島想太 @ele_cat_namy

家族の子息の教育について。男子は寄宿舎に入り帝王学的な教育を施されることが多かった。女子は基本的には自宅に暮らし、親やお付きの女中から躾を教えられるのが一般的だった。 女中については先日まとめたのでそちらも参照。↓ togetter.com/li/1180641

2018-03-09 15:54:36
波島想太 @ele_cat_namy

寺島雅子は父の方針で様々なお稽古ごとを習わされた。祖先に細川三斎がいるために茶道は三斎流だった。華族ではお茶やお花、お琴といった習い事をさせたが、あくまで教養として知っておくことで、奥義を極めるまで精進させることはなかった。ちなみに昭和天皇の皇太子時代の方針も広く浅くだった。

2018-03-09 15:59:40
波島想太 @ele_cat_namy

京極典子も14才まで謡や花などを習い、楽しんではいたが、父の「これ以上むやみに上手くなっても良くない」とやめさせられてしまった。典子は一人っ子だったためになおさら家督を継ぐ(ための婿を迎える)ことを期待されていた。父の教育方針は母や女中にも徹底され、座り方、笑い方まで指導された。

2018-03-09 16:04:22
波島想太 @ele_cat_namy

勝田美智子もお茶やお花を習わされたが、母の実家吉川男爵家のハイカラな気風を受け、英語やピアノなども習っていた。行儀作法にも厳しく、「~わよ」という言葉遣いは下品なので使ってはいけないなどと指導された。美智子の弟で長男の敬策は厳しい教育の反動からハワイアンバンドに熱中したという。

2018-03-09 16:10:41
波島想太 @ele_cat_namy

クリスマスは戦国時代に宣教師によって日本にもたらされた。江戸時代には「耶蘇」と呼ばれ禁じられていた影響も維新後に次第に薄れて日本人にも広まり、明治末にはクリスマスプレゼントが一般的になった。勝田と寺島の実家ではクリスマスを祝ったが、上杉と京極ではやらなかった。過渡期と言えよう。

2018-03-09 16:18:35
波島想太 @ele_cat_namy

華族は体面が重要であり、特に当主や嗣子は多くの拘束を受けた。学校卒業後は軍人か官吏になるものとされていた。京極典子は先述の通り一人っ子だったため、長兄同様の重圧を受けていた。ただ典子の父は代々の資産家であり、仕事はせずに温室をつくって植栽したり、能を楽しんだりしていた。

2018-03-09 16:23:40
波島想太 @ele_cat_namy

華族の邸内には家政を執り行う事務所のようなものがあり、華族の資産運用はそうした家政機関によって行われ、当主といえども勝手は許されず、女性に至っては全く話に関わらせてもらえなかったという。

2018-03-09 16:27:34
波島想太 @ele_cat_namy

さて本書の四人はみな女子学習院の卒業生である。大正時代に入学した当時は、華族の女子はフリーパスで入学でき、授業料も無料だった。教育方針は乃木希典の影響が大きく、質素や規律が重んじられた。みな資産家で自由にすればいくらでも華美になるために制服を定めたとも言われる。

2018-03-09 16:35:33
波島想太 @ele_cat_namy

女子ならお洒落もしたいものだが、ブローチもリボンも禁止で、髪型も三編みか後ろで束ねるのみだった。聖心女子は当時でもリボンなどが解禁されていて、それが羨ましかったという。また授業では英語や数学などよりも「修身」が重んじられた。「教学聖訓」などがあるが内容は割愛する。

2018-03-09 16:39:50
波島想太 @ele_cat_namy

何しろ名家の子女ばかりであるので、歴史の授業が独特の雰囲気であった。年度の始め、歴史教師が生徒たちを和ませようと家康を「狸親父」と呼び、秀吉の方が人気があるという話をしたところ、徳川宗家の娘である上杉敏子は泣き出してしまい、後々まで語り草になったという。

2018-03-09 16:43:14
波島想太 @ele_cat_namy

当時の女子学習院の卒業生の大半は、卒業後まもなく結婚して家庭に入っており、良妻賢母であることが重要視され、成績はそれほど気にしていなかった。あくまで一般的な教養として知っておけばいいという程度のものであった。

2018-03-09 16:47:01
波島想太 @ele_cat_namy

健康作りのためか、運動も奨励された。当時は体操服がなかったので、セーラー服姿や、袴に靴を履いて(いわゆるハイカラさんスタイル)テニスをしていた。

2018-03-09 16:51:10
波島想太 @ele_cat_namy

(修学旅行や皇室との関わりの話があるが割愛)

2018-03-09 16:54:31
波島想太 @ele_cat_namy

(避暑地での優雅な夏休み風景なども興味深いが、ここも割愛。軽井沢がいかに日本を代表する保養地になったかという話もなかなか面白い)

2018-03-09 16:56:47