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維新三傑・大久保利通の生涯をまとめてみた

明治維新の維新三傑の1人、大久保利通の生涯をまとめてみました。
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

利通は全身に16箇所もの傷を受けていました。そのうちの半数は、頭部に集中していました。 事件直後に駆けつけて遺体を見た前島密は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現しています。

2018-06-14 19:53:56
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

島田らは刀を捨てて、同日に利通の罪五事と他の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良)の罪を挙げた斬奸状を手に自首しました。 実行犯は石川県士族 島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名です。 pic.twitter.com/xck2BMjPsA

2018-06-14 19:53:57
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

その中でも特に中心的存在だったのが島田一郎です。島田は加賀藩の足軽として第一次長州征伐や戊辰戦争に参加しており、明治維新後も軍人としての経歴を歩んでいましたが、 征韓論に共鳴していました。やがて「明治六年の政変」で西郷隆盛が下野した事に憤激し、国事に奔走していたのです。 pic.twitter.com/3K38xU0quo

2018-06-14 19:53:57
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杉村文一の兄の杉村寛正も征韓論では従軍願いを出していました。さらに台湾出兵では杉村・長らは再び従軍願いを出しており、 台湾出兵中止の噂に対する反対の建白書や、佐賀の乱の処理を批判する建白書にも杉村(寛)・島田と後に斬奸状を起草する元金沢藩士・陸九皐が名を連ねています。

2018-06-14 19:53:59
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しかしこれらの建白書は期待した効果を生まず、島田らは実力行使路線を採ります。1874年(明治7年)に島田と長は東京で会い、意気投合。 1874年(明治7年)6月 長は台湾出兵について西郷と桐野利秋の見解を聞きに杉村(寛)、陸と鹿児島入りしています。 pic.twitter.com/ZFwNf1BEm6

2018-06-14 19:54:00
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

長は半年ほど鹿児島に滞在し、私学校に留学しています。長は1876年(明治9年)にも鹿児島入りして桐野らと旧交を温めていました。 長が帰県した10月には「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」と士族の反乱が相次ぎ、島田も金沢で挙兵計画に奔走しますが失敗しています。 pic.twitter.com/p8pJ6p4Zea

2018-06-14 19:54:01
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翌1877年(明治10年)の西南戦争では、島田と長が協力して挙兵計画に奔走しますが、周囲の説得に苦慮している間に 4月に政府軍が熊本城に入城したとの情報を得て、勝敗は決したと計画を中止しています。この後、島田らは高官暗殺に方針を変更します。 pic.twitter.com/wFvkpyGznA

2018-06-14 19:54:03
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杉本・脇田・杉村らもこの時期に島田の計画に加わります。3名はそれぞれ1878年4月まで上京。唯一の島根県人だった浅井は、 西南戦争当時は警視庁の巡査で警視隊に属して従軍し、1877年(明治10年)8月には東京に凱旋していました。

2018-06-14 19:54:04
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

しかし、禁令を犯して1878年(明治11年)2月に免職となり、3月に島田らの暗殺計画を知って計画に加わります。 彼らの暗殺計画は複数のルートを経て、当時の警察のトップである大警視・川路利良の耳にも入っていましたが川路は「石川県人に何が出来るか」と相手にしていなかったそうです。 pic.twitter.com/LAFVPyn7r2

2018-06-14 19:54:04
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翌5月15日には利通に正二位右大臣が追贈され、利通と御者の中村の慰霊式が行、17日に両者の葬儀が行われます。 葬儀は大久保邸に会する者が1,200名近く、費用は現在の紙幣価値で数千万という近代日本史上、最初の国葬級葬儀となりました。

2018-06-15 01:32:53
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

警察の捜査は厳重を極め、斬奸状を起草した陸や、島田に頼まれ斬奸状を各新聞社に投稿した者、事件を聞いて快哉を叫んだ手紙を国許に送っただけの石川県人など30名が逮捕されます。 政府は暗殺犯を刑法上規定がない「国事犯」として処理し、大審院に「臨時裁判所」を開設して裁判を行いました。

2018-06-15 01:32:53
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臨時裁判所は形式上は大審院の中に存在しますが、実際は太政官の決裁により開設し、太政官から司法省に委任された権限に基づいて判決を下す、 事実上の行政裁判所でした。司法卿によって任命された玉乃世履判事らは同年7月5日に判決案を作成し司法省に伺いを立て、司法省ではこれを受けて pic.twitter.com/NmqNGiqfgD

2018-06-15 01:32:53
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7月17日に太政官に伺書を提出。7月27日に6名は判決を言い渡され、即日斬罪となりました。斬奸状を起草した陸は 終身禁錮刑に処せられますが、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法発布により特赦を受けて釈放されています。 pic.twitter.com/ZmrhFc4kym

2018-06-15 01:32:54
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1888年(明治21年)5月 沖縄県令 西村捨三・書家 金井之恭・静岡県令 奈良原繁らによって「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建立されました。 この事件を機に、政府高官の移動の際は数人の近衛兵らによる護衛が付くようになったそうです。 pic.twitter.com/Vlpp0InFps

2018-06-15 01:32:55
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

「紀尾井坂の変」について補足を少し。暗殺事件は紀尾井坂であったと思われがちなんですが、実際は紀尾井坂ではなく清水谷という場所が現場なのです。紀尾井坂を訪ねた時にこのような案内柱も建っていました。 #紀尾井坂の変 pic.twitter.com/nm8emVsMvZ

2018-06-15 18:01:08
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

この案内柱によれば ~事件が【紀尾井坂の変】としてあたかもこの坂で起こったかのように誤って伝えられているのは灯火を持ち、馬車を先導していた人物がこの紀尾井坂に差し掛かった時に事件が起こった為です~ とあります。暗殺事件現場は紀尾井坂ではなく清水谷(公園付近)なのです。 pic.twitter.com/U3aa8AFMgB

2018-06-15 18:01:09
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斬奸状には利通が公金を私財の肥やしにしたと指摘の言葉されていましたが、実際は金銭に対しては潔白な政治家で私財を蓄えることをせず、 それどころか必要でも予算がつかなかった公共事業には私財を投じてまで行い、国の借金を個人で埋めていました。その為、死後は多額の借金が残っていたそうです。

2018-06-15 13:48:17
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

しかし、このまま維新の三傑である大久保利通の遺族が路頭に迷うのは忍びないという配慮から政府は協議の上、大久保が生前に鹿児島県庁に送った寄付金を回収し、 さらに募金を集めて遺族を養う事にしました。利通は西南戦争で故郷の薩摩・鹿児島と西郷隆盛を敵に回した事で、

2018-06-15 13:48:17
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

地元からは冷ややかな目で見られ、地元への納骨が避けられていた時期がありました。地元鹿児島では「西郷どんの敵」とされ、 彫刻家の中村晋也が制作した銅像が建てられたのも1979年(昭和54年)西南戦争百周年の機会によるものでした。 pic.twitter.com/PnaIsze049

2018-06-15 13:48:18
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

ただ、西南戦争については戦争前に西郷が私学校の青年たちと一緒に居る事を知り、西郷と会談したいと鹿児島へ自身を派遣するよう希望したそうです。 しかし、利通が殺される事を危惧した伊藤博文らに朝議で反対された為、希望は叶わなかったというエピソードも残っています。

2018-06-15 13:48:19
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

東京都港区青山霊園。都心の中に在る広大な霊園の中にひときわ大きく区画された墓所、それが内務卿・大久保利通の墓です。 自身が仲間たちと共に切り拓き、時には盟友を袂を分かつ事までしても国をより良くしようと私財を投じてまで国に尽くしていた利通を待っていたものは非業の死でした。 pic.twitter.com/SBOfpfnsG6

2018-06-15 13:48:19
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

大久保利通と西郷隆盛。2人の英傑の最期はあまりにも悲しいものでした。しかしながら、彼らと盟友たちが切り拓いた明治の世が今を生きる私達の礎となった事は確かです。 金銭に関しては潔白だったと伝わる大久保利通。140年後の混迷する現在の日本の政治を彼はどう見ているのでしょうか。 pic.twitter.com/bAUHed3nH8

2018-06-15 13:48:22
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