『本陣殺人事件』と後期クイーン的問題
- quantumspin
- 3185
- 8
- 0
- 0
もうひとつ、1937年と言って外せないのが『蝶々殺人事件』でしょうね。『蝶々』と『本陣』との類似性は恐らくこれまでさんざん指摘されていそうにも思うのですが、不思議とそうした評論に巡りあいません。
2018-07-16 14:50:27そもそも執筆時期が同じですから、似ない筈はないのですが、両者の類似性は、表面化している『アクロイド殺し』の影響以上にあるように感じられます。まず、両者はトリックを仕掛ける人物(の役割)が共通しています。
2018-07-16 14:59:29個人的には、こうしたトリックの処理の仕方には、まさに手垢のついた○○を解体しているような印象をうけてしまいます。『蝶々殺人事件』は〝アリバイトリック〟を『本陣殺人事件』は〝密室トリック〟を、
2018-07-16 15:08:01こうしたトリックの使い方には、トリックに精通した人をこそ狙い打ちにして驚かせようとしている印象をうけてしまいます。両作共、作中に〝英米探偵小説では~〟といった言い回しが頻出するのですが、このあたりにも、探偵小説のお約束をこそトリックに利用する横溝の企みが透けて見えるようです。
2018-07-16 15:15:53これが『神楽太夫』になると更にあからさまになっていきます。『神楽太夫』は顔のない死体トリックを熟知している事が、トリックを驚くための必要条件になっています。
2018-07-16 15:21:19そう言えば、『神楽太夫』の事件はいつ起きたのでしょうね。疎開のずっと前ですから戦前には違いありませんが、1937年だったら面白いものかもしれません。
2018-07-16 15:25:27ようするに、これらに共通する特徴として、作外のお約束(メタレベル)が作中にずれ込んでいる、というものが挙げられそうです。クイーンは件の三部作でこれを神学的に止揚しリアリズムと調和させていますが、一方の横溝はむしろリアリズムの方を探偵小説化させようとしているような書き方になっている。
2018-07-16 16:04:29密室でもダイイング・メッセージでも、クイーンのミステリ的ガジェットの扱いにはリアリズムへの意志というか、どうも日常の中にミステリ的必然を湧き立たせたいようで、先の考える必要ない密室はその好例と思いますが、操りテーマを神学化する戦後クイーンでもやはりスタンスは変わらないようです。
2018-07-16 21:47:44この、どこまでも作中必然性に拘るクイーンの作風と比較すると、横溝の作風の特異性が鮮明になるように感じられます。横溝はクイーンと異なり、作中に作者視点をずれ込ませる事にまるで抵抗がないばかりか、これをトリックの中枢に据えてしまうのです。
2018-07-16 21:57:31といったような事を書こうと思っていたのですが、結局のところこれもボツにしています。まあこれも、例の十枚制約です。英米作家と国内作家との戦後受容の差異については、もう少しきちんと考えてみたいところですが、今回は深堀していません。
2018-07-16 22:03:31ところで、後期クイーン的問題に引き付けて考えると、横溝のこの作風はアンフェアという話になりそうです。作者の恣意性が作中に入り混んでいる、というのがその理由です。
2018-07-16 22:52:43本格原理主義者が横溝のこうしたメタなトリックをどう価値判断するかは一度伺ってみたいところです。ミステリに限らず、私は作品の価値をどう判断すればよいかについて、未だあまりわかっていないのですが、ただ何故横溝がそのような作風を選んだのかは大変興味があります。
2018-07-16 23:01:01『評す』を読んだ横溝の反応には諸説あるようです。例えばここで取り上げられているようなd.hatena.ne.jp/puhipuhi/20180…
2018-07-21 15:06:14個人的に気になったのは、一見すると『本陣』を酷評しているようにしか見えない『評す』を読んで、横溝が『今日は嬉しき日なり』と日記に記したという事実ですかね。乱歩は何故あそこまでの『本陣』批判を行ったのか、そして横溝がその批判を何故喜んだのか。二人のこのやりとりは大変に謎めいています
2018-07-21 15:13:18さらに言うと、乱歩は結局のところ『本陣』を推理作家協会賞に推しているわけですが、『評す』であれほど酷評しておきながら、どうにも言っている事とやっている事との間に隔たりがあるように感じてしまうわけですね。
2018-07-21 15:17:10ところで、『評す』と同時期に乱歩は有名な『一人の芭蕉の問題』を書いていますが、『評す』のなかでも芭蕉が登場する箇所があります。ポーの探偵小説形式はリアリズムとは矛盾するものであって、矛盾なき探偵小説には一人の芭蕉が必要、といったあたりがそれです。
2018-07-21 16:02:04ところで、『評す』と『一人の芭蕉の問題』とでは、芭蕉の扱いに温度差を感じます。もちろん乱歩は両者を同列に扱っている筈ですが、書かれた内容を読者が読むと、その印象が違ったものに見えてしまいます。
2018-07-21 16:07:19『一人の芭蕉の問題』では、芭蕉の登場によって『あらゆる文学をしりえに、探偵小説が最高至上の王座につくこと、必ずしも不可能ではない』と書かれています。これを読むと、乱歩がいかに現在の探偵小説に満足していないかがわかります。
2018-07-21 16:11:11一方『評す』の方では、自然主義リアリズムと探偵小説とを止揚する事は実現不可能な理想として芭蕉を描き、あくまでも現在の探偵小説的リアリズムを賛美する書き方になっています。『評す』を読む限り、乱歩が芭蕉を真剣に目指すべき目標としているとは捉えにくいのです。
2018-07-21 16:17:00そして、横溝は『評す』だけを読み『今日は嬉しき日なり』となるわけですが、後日『一人の芭蕉の問題』を読む事で、『評す』の印象が少し変わったのではないかな、と推測しています。
2018-07-21 16:19:49先に述べた通り、横溝の作風は自然主義リアリズムとは程遠い、探偵小説的お約束を作中に持ち込む事に躊躇がありません。恐らくはリアルをも探偵小説化してしまうような作品をこそ横溝は書きたかった筈で、『評す』を読む限り、乱歩もこの路線に賛同してくれているように読める訳です。
2018-07-21 16:25:10