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世界に対する知と信

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水野 亮(3) @drawinghell
駒沢倉庫「奥村雄樹、髙柳恵里、豊嶋康子ー世界に対する知と信」、今年のエビゾウのテーマ「インヴィジブル」から予測していたのは、むしろこんな展示だった。本展には映像作品は出品されていないが、エビゾウテーマの英訳”Mapping the Invisible"にも適った内容である。
水野 亮(3) @drawinghell
(世界に対する知と信)例えば豊嶋康子の作品に対する自分の解釈は「この世界を構成する見えない構造を示す地図(的なもの)」である。そしてその性質(本質)故に豊嶋の作品は置かれる文脈や環境に左右され難い。作品が反転させるのは「この世界」を成り立たせている地軸だからだ。
水野 亮(3) @drawinghell
(世界に対する知と信)それに対して奥村が今回「ひっくり返す」のは自身の作品が置かれる文脈自体=「この展覧会」である。言葉の問題に着目し「展覧会」に孕まれる権力の不均衡による暴力性や「主体」の不分明など自明とされているが故に「見えない」要素を奥村は錯乱・反転させて可視化する。
水野 亮(3) @drawinghell
(世界に対する知と信)では豊嶋が「この世界」を、奥村が「この展覧会」を反転させているのなら、三者のなかではもっともその作品が置かれる文脈に左右される度合いが高いように見える髙柳は何を反転させているのか。少なくとも何かが「ひっくり返されている」感覚は確実にある。
水野 亮(3) @drawinghell
(世界に対する知と信)もっとも退屈な解釈は髙柳が反転しているものは「美術」という制度だとすることだろう。確かに髙柳の作品は美術館/画廊や展覧会という場(=「美術」の文脈)に置かれて初めて作品として成立するもののようにも見える。しかし殊本展の展示に関してはその解釈では到底足りない。
水野 亮(3) @drawinghell
(世界に対する知と信)なぜなら既にここでは豊嶋と奥村によって場を成り立たせる二つの大きな地軸(「この世界」と「この展覧会」)への反転が試みられているからだ。そのような場でいまさら「美術という制度」をひっくり返してみても、その効果の度合いは限定的だろう。
水野 亮(3) @drawinghell
(世界に対する知と信)しかしあきらかにこの展示における「反転」のキーを握っているのは髙柳の作品であるように感じるのだ。おそらくそこには最近自分が繰り返している「typicalからのズレ」が関係しているように思われる。
水野 亮(3) @drawinghell
(世界に対する知と信)どのような場に置かれても「この世界」を反転させる豊嶋の作品も、あるいは奥村によって反転された「この展覧会」も、どちらもuniqueであり決してtypicalではない。そのuniqueな場を髙柳の作品はもう一度typical(凡庸)に戻しているのではないか。
水野 亮(3) @drawinghell
(世界に対する知と信)そして「凡庸」に戻された場を、再度微妙にズラす。そのズレによって引き起こされる反転は、豊嶋の作品による反転とも奥村の作品による反転とも異なる位相に在りながら、他の二つの反転も伴い最終的にこの場における最大の「反転」となっているように思うのだ。
水野 亮(3) @drawinghell
(世界に対する知と信)場の力学に左右されない豊嶋作品と場の力学自体を反転させる奥村作品以上に支配的に場を反転させていたのが、最も文脈に左右されやすきfragileな作品に見える高柳作品だったということ自体がまた一つの反転である。この複数の「反転」の錯綜こそが、本展の最大の主眼であった。
水野 亮(3) @drawinghell
(世界に対する知と信)本展がuniqueなのは紛れもなくこの三人の顔合わせにこそ拠っている。しかしそれ以上にuniqueなのは、その「手柄」が三人を組み合わせたキュレーションではなく個々の作家(それらの「組み合わせ」ではなく、あくまで独立した「個々」)に帰されていることだろう。
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